2012年3月22日木曜日

20120322


20120322


忘れるということは、記憶を無くすことではなく、記憶を箱に入れて蓋を閉めることなのかもしれない。その箱は常に心の中を漂い、何かの拍子に蓋が開いて記憶がこぼれ出てくる。そんな「記憶との再会」が、殊に温かな再会が、人生には何度か用意されている。この作品を読んで、そう信じたくなった。


 ある小説の書評の一節である。ここで書かれている「記憶が入っているという箱」は私の中にもあり、今日、その蓋を「何かの拍子に」ではなく、意志を持って開けてみた。 

 このブログをはじめて、ちょうど一年になる。「東北地方太平洋沖地震から約十日が過ぎた」と書いてから、一年が経った。短かったという印象は無い。むしろ、ずいぶん時間が経っているような、私が認識している一年の間隔(感覚)よりも、ずいぶん長かったような気がする。
 まず、当時頂戴したたくさんのご支援や励ましにあらためて感謝したい。お寄せいただいた多くの言葉やモノは、私をはじめ家族や知人の心を温めた。本当にありがたかった。心より御礼申し上げます。そのことをまず、言わなくてはならない。
 これについては、一年前の文章で、自分がきちんと御礼を言っているかどうか少し不安になった。読んでみると、他人の言葉ではなく自分の言葉で書いていたので、少し安心した。このとおり、一年前の記憶というのももはや曖昧である。一年後の20130322に、今日書いたことをどれだけ覚えていられるかも、まるで自信が持てない。
 だから今日は、「記憶」というものを少し考えてみた。もちろん、十日ほど前の新聞紙面にあふれていた「忘れない」「忘れたくない」「忘れられない」「忘れないで」「忘れてはいけない」なども、少しだけ視野に入れた。


 記憶には鮮度がある。そして、出来事が記憶になった瞬間から、その腐敗が始まる。これは仕方のないことだ。生きていると、目の前で次々に出来事が起こる。目の前のことだけではなく、未来に起きる出来事のことも考えねばならないだろうし、未来の出来事を自ら起こす準備もしなくてはならない。時間が不可逆に積み重なっていく以上、出来事はすぐに過去のことになり、記憶になる。そしておそらく、時間の積み重なりが記憶を腐敗させていく。
 私の一年前の記憶も、まったく残念なことに腐敗していた。缶ビールのくだりなどは、パラグラフをまるごと忘れていた。でも、先日行った居酒屋の入口にあった立て看板、あるビール会社の銘柄が書かれたその立て看板を見た時、それが贔屓の銘柄ではないのに心の中に動きを感じた。あの一瞬、それはもしかしたら、立て看板を見たことによって箱の蓋が開き、缶ビールを流しに捨てたあの記憶がこぼれ出てきていたのかもしれない。

 記憶の腐敗を防ごうとする行為が、いくつかある。たとえば記録だ。写真や映像などがその例になるのだろうか。先日、主に一年前のことを題材にした映像作品をいくつか観る機会があった。写真をつなげたスライドショウのようなものもあり、「あぁ、これは記録なんだろうな」と思いながら観ていた。興味がわいたのは、制作者がその記録をもって、出来事をどう記憶しているのかということだった。幸運なことに、制作者に対して質問できる機会があったので楽しみにしていたら、同席者(ある友人)が先んじて似た質問をした。「なるほど、そういう訊き方があるのか」と感心した記憶はあるが、肝心の回答がどれもいまは記憶に無い。その質問を越えるほど感心するような回答は、 たぶん得られなかったのだと思う。もし制作者が、記録することで記憶が腐敗しないと考えているとしたら、その根拠を言葉で説明してもらいたいと期待していた。その期待は萎むことになったが、これは制作者に問題があるのではなく、余計な期待を膨らませた私に問題があるのだろう。ただ、その友人の問いが、私にとっては実に鋭く、それに対しての回答はそのまま私の疑問に対する答えになるような気がしたので、その場で鼓動が少し速くなった。冷静になって考えてみると、それは回答への期待ではなく、その友人への勝手な感謝なのかもしれない。「あぁ、この人と友人でよかった」と思った。鼓動が速くなった後に、目頭が熱くなるという経験をはじめてした。

 話を戻す。これは私の至らない部分であり、想像力の足りなさが原因であることは重々承知なのだが、もし記録が記憶の腐敗を防ぐのであれば、それを言葉でなんとか理解したいと願っている。できれば、自分がこれまで見聞きしたような、ある意味でお決まりとなっているような言い回しではなく、はじめて見聞きするような整然とした言葉をもって理解したい。一方で、もし記録と記憶はまったく無関係にあり、記録が記憶の腐敗を防ぐことなど無いという考え方があるのなら、それもじっくり考えてみたい。いまの私は、前者のほうにはまったく足を踏み込めず、後者のほうに無意識に片足を突っ込んでいるような位置に立っている。無意識ゆえに(と言ってしまうとパラドックスに陥るが)、後者も言葉 での説明にはま だ遠い。そんな中で、もう少し考えてみる。

 思うに、記憶は育むものである。ほうっておけば腐敗が進むので、手をかけて育まなければならない。思い切って言えば、命を与えて生かさなければならないものだ。命を与えられた記憶は、我々がそうであるように、他者によって生かされていく。
 たとえば、庭に咲いた草の花。時間の積み重なりの一瞬を切り取るかのように、美しく咲いたその日に茎から上を切ってしまえば、手には一瞬を切り取られた花が残る。これはその花の、咲いたその日、ある一瞬の「記録」だろう。花は、切った瞬間からたちまち腐敗が始まる。もしその花を一輪挿しに挿せば、花の命は少し保たれ、命は延びる。かたちは変われども、その花が切られた一瞬を思い出すための手がかりが残される。「あのときはもっと花弁が閉じていた」「あのときよりも下を向くようになってきた」などと、記憶をたどり、振り返る言葉も出て来よう。しかし、不可逆な腐敗は進む。
 もし庭に咲くままにしておけば、切るよりも、それを一輪挿しに挿すよりも、命は長くなる。愛でる時間も長くなるだろう。「あのときよりも花の色が濃くなった、薄くなった」と、その花の姿を目にしながら、咲いたあの日の記憶が生きる。やがて花の季節を終え、花弁が地に落ちれば、それを拍子にまた箱の蓋が開き、咲いたあの日の記憶がこぼれ出てくる。こうして記憶は育まれ、生かされていくような気がする。

 毎夏、あさがおを育てている。もう10年になるかも知れない。きっかけは、気まぐれにタネを買ったことだ。きっかけは気まぐれだったが、青い花が咲くタネを買ったのには理由があった。それ以来、毎年タネをとって、毎年蒔いている。タネをとった後のツルもカラカラに乾燥するまでとっておき、冬のある日にハサミで細かく切って、夏にあさがおを咲かせた土に混ぜる。タネが代々の継承物であるように、ツルにも次代の養分になってもらう。たぶん、専門的に見れば、タネの生命力のようなものも代々弱ってきているのかもしれない。ツルを土に混ぜるよりも、養分が豊富な新鮮な土と丸々入れ替えたほうが良いのだろう(半分程度の入れ替えはしたが、丸々替えたことはまだ無い)。それでも、花は毎夏たくさん咲く。そして、タネ もたっぷり作る。花の色はだいぶ薄く、空色に近くなったが、その空色の中にもとどまる青を見れば、はじめてタネを買ったあの日、青い花のタネを選んだ理由を思い出す。記憶は腐敗していない。

 記憶が腐敗しないように、記憶を育む。それは即ち、「変わり継続すること」ではないかと思う。10年前は、あさがおを育てることなど考えもしなかったが、ある日タネを買い(変わり)、ずっと育てる(継続する)ことで、青い色を選んだ記憶はいまも腐らずにいる。なぜなら、記憶と出会う機会が多いからだ。土を作り、タネを一晩水につけ、割り箸の先で土に穴をあけて蒔く。そして水をやり、芽を、双葉を、本葉を喜び、支柱を立て、…という一つひとつの行為がすべて、青い色の記憶につながっていく。
 もちろん、はじめての夏に咲いた青い色の花を写真に収め、その後育てることはせず、時折その写真を眺めてみるという記憶のとどめ方もあろう。しかし、自分の場合は、変わり継続するほうが記憶の鮮度を保てるような気がする。いや、保つのではなく、記憶が命を得ているような気がするのだ。

 一年前は、備蓄と新たに手に入るわずかな食材を、石油ストーブ駆使して妻がなんとか三食を作ってくれていた。汲み置きの水も、「実用分」と「安心分」に分け、実用分の減りを給水車や隣の地区の水汲み場に並んでその日ごとに補った。その記憶は、空っぽになった冷蔵庫の写真や、毎日リュックに入れて背負った空のペットボトルの写真では命を得られない。その記憶を、自分の中で長く生かしてやることが出来ないと感じている。  
 この一年、正確に言えば20110411から、毎月11日を「備蓄の日」とした。長期保存が可能な食料や水、コンセントや元栓を必要としないエネルギー(乾電池や卓上コンロ用ガスボンベ)、またはウェットティッシュやラップなどの非常時必需品を購入し続けてきた。目標は、「1.5の備蓄」。あの時と同じような状況に陥ったとき、家族が数週間困らない程度の備蓄が「1」。それに加えて安心分の「0.2」。そして、だれかの支えにまわせる分の「0.3」。足して1.5だ。一年前は、食材や水に限らず買い占めが問題になっていたが、いまは何の非難も受けない。1.5の備蓄は、いまなら出来ることだ。
 一年前、ある家から大量の応援物資をいただいた。こんなにもらって大丈夫かと思い遠慮すると、その家では台所にある床下収納庫を普段から備蓄食材で満たしていると聞いて驚いた。消費期限を確かめながら日常の食材としても使い、使った分は買い足しているという。食材備蓄の必要性は常日頃からよく言われていたが、それを徹底的に実践している人が身近にいたことが衝撃だった。たぶん、ここで私は変わったのだと思う。そして備蓄を始めた。備蓄はまだまだ継続させるつもりだ。変わり継続することで、記憶に命を与え、なるべく長く生かそうと思っている。
 毎月10日の前には、備蓄に必要なものを妻に訊ね、消費期限をチェックし、仕事帰りなどに買い物に行く。それら一つひとつは私にとって、「何かの拍子に」ではなく、意志を持って箱の蓋を開け、記憶と再会する機会になっている。

 記憶を腐らせないためには、記憶を育まなければならない。そのためには、変わることと継続すること。考えてみると、あれ以来、自分の中では「読書」も変わった。どう変わったのかは上手く言えないが、変化の質と方向だけはきちんと捉えていると思う。1.5の備蓄よりも、自分としてはこのことのほうがずっと大きい。
 多くの人がこれまで語ってきているように、読書は想像力と理解力を養う。とくに想像力については、本を一冊読み重ねるごとに、たしかな手応えとしてそれを感じる。
 想像力を考えるとき、愛読書の一節がいつも頭に浮かぶ。「二十一世紀に生きる君たちへ」(『十六の話』/中公文庫)のなかで司馬遼太郎は、助け合う気持ちや行動のもとのもとは「いたわり」という感情であり、それは「他人の痛みを感じること」とも「やさしさ」とも言い替えられると語る。私はこの「他人の痛みを感じること」とは、いくら養っても過ぎることの無い、想像力の一つであると自戒している。さらに司馬は、「いたわり」「他人の痛みを感じること」「やさしさ」は本能ではないので、訓練をしてそれを身につけなければならないと説く。そして続ける。

  その訓練とは、簡単なことである。
  例えば、友達が転ぶ。
  ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、
  そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。

 読書においても、この訓練を置き換えて継続させることができそうだ。想像力も、絶えず育まなくてはならない。そうすればいつか、それこそ「何かの拍子に」、当時の自分の思いや記憶と再会できるかもしれない。それが温かな再会であるかどうかはさておき、記憶を腐敗させないための一手にもなろう。そして、「何かの拍子に」にはあまり頼らず、自ら箱の蓋を開け、その中にある記憶を育む。これの継続だ。いまこの一瞬も、その継続の最中であること、次の一瞬もまた継続の中にあることを、忘れてはいけないと思っている。

 いま考えられる「記憶」について、あるいは想像力については、こんなところである。


 ちなみに冒頭に引いた書評の一節は、かつて私が書いたものだ。これもまったく残念なことに、自分で書いた文章というのも時が重なれば忘れてしまう。急に思い出したのは、先日ある友人と話をしているときに、「周りから『忘れない』『忘れてはいけない』と言われている時、その当事者が『いえ、忘れてください』と言えるタイミングってあるんでしょうかね?」と訊ねられたことがきっかけだった。まるで鋭利な鉤針に捕えられ、深い海から強く長い糸で引き上げられるように、「記憶が入っているという箱」の一文が頭のなかに現れた。これは「何かの拍子に」の例にあてはまる記憶との再会だろう。

 おそらく多くの人が気づいているだろうが、この友人とは前述の友人と同一人物である。この友人がいなければ、たぶんこの文章を書くことはなかった。この友人に深謝する。

2012年1月1日日曜日

20120101

20120101

恭賀新年

2001年12月3日に、下のような文章を書いた。
↓(一部改訂)



ジョージ・ハリスン死去の報は、会社のPCの画面で知った。ニュースサイトの一文、ありふれたフォントの文字で、「さん」付けされたジョージは死んでいた。危篤状態であることは知っていた。実はここ数日、その報を探すようにニュースサイトを訪れていた。それでも、ショックは大きかった。時々刻々更新されるサイトの即時性が、なぜか怖く感じた。その報を見ても、ジョージの身体がまだ温かいかのような錯覚さえ起こした。今ならまだ、頬が赤いままのではないかと。

会社を出て、旧いビルの中にある中古レコード屋へ行った。中古レコード屋とはいえ、集まる客の目的は入手困難な海賊版だ。雑音ばかりでまともに聞けないような海賊版レコードが、この店には大量にある。自分も10年前は毎週のように通い、大枚をはたいてライヴ録音やセカンドトラックのレコードを買い、喜んで聴いていた。そんな年頃だった。
10年前と同じように階段を登り、店に入って驚いたのは、そこにある空気が10年前と全く変わっていなかったことだった。そしてもっと驚いたのは、店の人が僕のことを覚えていたことだった。「あ! 水泳部の部長・・・じゃない!?」店の人の記憶も10年前と同じだった。空いた10年間を話せば長くなるし、何から話せばよいか分からない。「仙台で働いてます」と
だけ言うと、彼はニッコリと笑い「そう。ゆっくり見てって」と言ってくれた。
買うものは決まっていた。当時は近寄りもしなかった一般中古の棚。「ALL THINGS MUST PASS」。ジョージ・ハリスン渾身のファースト・ソロ・アルバムだ。レコードでは何回も聴いたアルバムだが、CDは持っていなかった。その日にどうしても必要なアルバムだった。レジに持っていくと、

店員「あれ? もしかして・・・」
私「ええ、さっき知りました・・・」
店員「そう・・・。今日は、聴くんだ」
私「そのつもりで。うん・・・」

少し割り引いた金額で、10年ぶりに僕にCDを売った長髪の店員は、こう付け加えた。

「あの、一緒に来てた背の高い、ソフトボール部のエース、どうしてる?」

二枚組CDの厚みを手に確かめていた僕は、その問いには答えられなかった。


帰りのバスに揺られながら、「ソフトボール部のエース」の顔が頭から離れなかった。元気だろうか? いまは何をしているのだろうか? ・・・もしかして、今日は、僕と同じことを考えているのではないか・・・と。

彼と出会ったのは中学の時だった。高校受験を控えた秋に隣りのクラスに転向してきた彼は、背の高いことが特徴の奴だった。そしてもう一つ、彼は変わった奴だった。同じクラスに友達も作らないまま僕のクラスにやってきて、突然、

「ねぇ、君、ビートルズ好きなんだって?」
「あぁ、そうだけど」
「じゃあさ、今日ウチに来ない? 一緒にレコードを聴こうよ」

変わった奴だと思いながら、放課後に彼の家に行った。夜勤明けだという彼の父親が迎えてくれ、おまけに蕎麦まで茹でてくれた。二人で蕎麦をすすりながらビートルズを聴き、とんでもなく上手い彼のギターに合わせて歌った。途中から、パジャマ姿の父親もコーラスに参加した。もう、一番の友だちになっていた。

彼はビートルズのどの曲を聴いても、ジョージ・ハリスンの凄さについて語った。僕がジョン・レノンの詞に傾倒した聴き方をしているのとは対照的だった。


「ジョージがいたから、ジョンとポールは好きにやれたんだ。あの天才二人をサポートしたジョージは凄い」
「ジョージのリードギターは、キースが言うように下手なんかじゃないよ。ジョンやポールの歌声より前に出ないように、控えめに弾いているだけさ」
「クラプトンに自分の奥さんを取られても、その後も二人と仲良く付き合ったんだ。信じられないくらい心の広い男だよ」


彼のジョージ評は、その後、一緒の高校に進み、彼がソフトボール部のエース、僕が水泳部の部長になる頃までも続いた。そして、彼の影響なのだろうか、僕は初めてのエレキギターとして、ジョージが使っていたものと同じタイプを選んで買った。

彼との付き合いが途絶えたのは、高校を卒業し、違う予備校に通い始めた頃からだった。「いつでも会えるさ」という安心感は、いま考えればあまりに脆かった。途中一度だけ、彼が僕の家に来たことがあった。同居していた僕の祖母が死んだことを道端の張り紙で知り、線香を一本あげて帰ったという。ちょうど告別式で寺へ行っていた僕は、留守番をお願いしていた近所のおばさんからそのことを知った。「背の高いお友達が、線香を一本あげて帰っていった。『合格したら、また会おう』とだけ伝えて欲しいと言っていた」と。その約束を楽しみに勉強に励み、雪解けの時季に僕は吉報を手にした。伝え聞きで彼の吉報も知り、東京に旅立つ準備のなか、彼の家を訪ねた。合格するまでは一度も手にしないと決めていた、ジョージと同じギターを持って。

出来過ぎた話かもしれないが、彼の家には別の人が住んでいた。当然その人も、彼の家族の消息は知らなかった。彼と同じ予備校に通った友人に聞いても、入学したという大学の名前すら2,3あって確かではなかった。むしろ、彼の行方を訊ねられるのは僕のほうだった。彼は、間違いなく僕の親友だったからだ。もう、遅かった。帰省の度に彼の消息を追ったが、時間が過ぎ、辿る糸が細くなっていくだけだった。


長髪の店員が割り引いて売ってくれた「ALL THINGS MUST PASS」を聴きながら考えていたのは、彼がなぜ黙っていなくなったのかではなかった。そんなことは、今となってはどうでもいいのだ。「合格したら、また会おう」という約束だって、あまりに時間が経ち過ぎている。一番気になっていたのは、守られるべきもう一つの約束だ。
ジョン・レノンの死の後にビートルズを知った我々は、「遅れてきたビートルマニア」といわれるファン層だ。そんな我々がはじめて迎えた、ビートルズの死。

「次にビートルズのメンバーが死んだ時には、必ず一緒にレコードを聴こう」

僕と彼は、たしかにそう約束した。場所? 手段? その時の連絡先? そんなことまで決めてはいなかった。携帯電話、Eメール、BBS・・・etc、あの時から飛躍的に進歩した情報伝達技術さえ、いま、まるで無力だ。
しかし、なぜか確信が持てる。ジョージが死んだ夜、彼もこの約束を思い出していたのではないかと。そして僕と同じように「ALL THINGS MUST PASS」を聞いていたのではないかと・・・。彼は、そういう男だ。

U・Mよ、約束は守られただろうか? 僕はジョージのギターを、君を思い出しながら聴いた。久しぶりに聴いた「ALL THINGS MUST PASS」は、切ないながらも力強いアルバムだった。君が昔言った「ロックの最高傑作」に違わない内容のアルバムだと、はじめて理解した気がする。君は正しかった。

4分の2になってしまったビートルズ。あと二回、こんな同じ思いをするのだろうか? いま、もう一度君を探そうかと思っている。U、また会おうじゃないか。一緒にビートルズを聴こう。何かの偶然で、この文章を読んでくれていることを切に願う。いつかまた必ず会えるとは思うが、連絡してくれれば、ありがたい。













今朝、Uから年賀状が届いた。
彼が祖母にあげてくれた一本の線香以来の音信だ。

今年が良い年にならないわけがない。