2011年4月27日水曜日

20110427

20110427

 遡ること、数年前の秋。

 その日は、宮城県サイクリング協会が主催する「秋の100キロライド」の開催日であった。名取市閖上にある名取市サイクルスポーツセンターを出発して、伊具郡丸森町の不動尊公園で折り返す、全長約100キロの自転車走行イベントである。海沿いにあるサイクルスポーツセンターは仙台エリアの自転車乗りの聖地であり、不動尊公園は宮城県南屈指の紅葉スポット。この二つを結ぶ同イベントは、毎年この地の自転車シーズンの終わりを告げるものとなっている。通称「(聖地と不動尊の)巡礼ライド」、または「落ち葉の100キロライド」などと呼ぶ人もいる。自転車の車列を巡礼者に見立てた前者もいいが、ロードレーサーの細いタイヤで、車道脇に寄せられた落ち葉をかさかさと踏んで走ることから付いた後者のほうが、私は気に入っている。このスポーツが常に季節とともにあることを感じさせてくれる、多くの自転車人に愛されているイベントだ。

 私はいつも、この手のイベントはなるべく遅くエントリーする。申込み開始直後にエントリーすると、スタート順も前のほうになり、やる気満々の連中に巻き込まれてレースさながらの「マジ走り」になってしまう。それはそれで面白いのだが、まわりの景色よりもコースの先々の起伏のほうに注意がいってしまい、「あの登りでアタックをかけよう」「後半の平坦地まで、脚を残しておこう(「脚を残す」=脚力を温存する)」などと考えているうちにゴールを迎えてしまう。これではせっかくの「落ち葉の100キロライド」を楽しめない。そのため、なるべく遅くエントリーし、前走集団を追わず後続からも煽られず、ゆっくりと走ることにしている。

 その日も、スタートは最終組に近かった。細い松並木の道を抜け、左に太平洋を見ながら南下。最終組の中でも位置を後ろにし、先行組を見送ってしんがりを気取る。気楽な一人旅を楽しもうと、スピードも落とした。

 しばらく走ると、両脇に田んぼが広がる橋を渡った先で人がうずくまっている。レースジャージを着ているようだ。たぶん参加者だろう。すぐ脇にロードレーサーが横倒しになっている。もし落車なら怪我が心配だ。近くまで行って声をかけた。

「だいじょうぶですか?」
パンクしちまった」

 声の感じはだいぶ年上で、かなりのベテランだと感じた。

「予備のチューブ、あります?」
「取り換えてたら、予備のほうもダメになった」

 ロードレーサーが練習に出るときは、たいてい予備のチューブと簡易型のエアポンプを携帯している。パンクしたら走れなくなるし、走れないということは帰れないということだ。私も常に、予備の新品チューブを持って出かけるようにしている。その人も予備を持っていたようだが、交換の作業で予備チューブをダメにしてしまったらしい。起こり得ることではあるが、あまりに運がないとしか言いようがない。自分の自転車のメーターを見ると、スタートからまだ8キロしか走っていない。100キロライドを8キロで終えるというのは酷だ。それならばと、自分の予備チューブを提供することにした。 
 ことわっておくが、これは珍しいことではない。ロードレーサーが予備チューブを携帯するのは、自助のためだけではなく、他のロードレーサー(=仲間)にトラブルが起きたときに助けるためで、ごく当たり前のこととの共通認識がある。少なくとも、私は自転車の師匠からそう教わった。ちなみに、ボトルホルダーにボトルを二つ付けておくのも、一つは自分のため、もう一つはいつでも誰かにあげるためだ。だから、一つは自分の好みのもの(例えばスポーツドリンクやアミノ酸飲料)を入れておき、もう一つは好みを問わない水を入れておく。水はケガをした時に傷口を洗ったり、暑い時には頭や身体にかけることもできる。二つのボトルのうちの一つは、「自分のボトルだが、誰かのボトル」なのだ。チューブにも同じことが言える。

「よかったら、チューブ使ってください」
いいのか? 自分のがパンクしたら、どうすんだ?」
「いやぁ、パンクする前に、ササッと100キロ走っちゃいますよ」

 サングラス越しなので目の表情はわからないが、相手の口元が緩んだ。

「おっ、なかなか言うなぁ。 それじゃぁ、ありがたくもらうよ」

 そう言って手早くチューブを嵌め(本当に、無駄のない見事な仕事ぶりだった)、手早くギアやブレーキのチェックも済ませた。その一連の流れは、美しいほどだった。

「お礼に、行きも帰りも俺が前を引っ張るよ。それでいいだろ?」
「…そうですか。それじゃぁ、せっかくですから」

「前を引っ張る」とは、縦列で走る際に先頭を走るということである。前を走れば風の抵抗も受けるし、コースの誘導やペースメイクもしなくてはいけない。逆に、後ろを走れば風の抵抗は無く、ついて行けばいいだけだ。本格的なロードレースでは、自分のチームのエースの体力を温存させるために、アシストの役割を果たす選手が前を引っ張ることが多い。趣味のファンライドでも、前を引っ張るのは上級者の役目である。
 かなりのベテランとは見えるが、年齢差は明らかだ。60代半ばくらいというところか。今はそう言ってくれているが、いずれは自分が引っ張ることになるだろう。それでも、せっかくのご縁だから一緒に走ってみよう。意外と面白いかもしれない。そう考え、「よろしくお願いします」と言って後ろについた。前を行く色褪せたジャージの背中には「TAKATA」とプリントしてある。チーム名だろうか。名前も訊かないまま走り始めてしまったので、とりあえず自分の中では「高田さん」と呼ぶことにした。ベテランの走りを後ろから見て勉強させてもらおうと、のんびりした気持ちでペダルを回し始めた。

 高田さんは、怪物だった。とにかく速い。軽めのギアを高速で回転させ、平地ではどんどん加速する。コーナーリングも攻めの一辺倒だ。小さい身体を折りたたみ、低い姿勢で走るので、身体が大きいこちらとしてはまったく風よけにならない。ペースもイメージしていたものより5割増しくらいで、このままだと復路の脚が少し心配になるほどだ。よく見てみれば、オールドブランドの年季の入ったシューズにグサリと刺さる高田さんの脚は、タダモノではない。焼けた肌が筋肉で押し上げられ、血管も浮き出ている。完全にロードレーサーの脚だ。エラい人と一緒に走るはめになったもんだと、のんびりを返上して「TAKATA」の背中を追うことにした。

 それでも、コースの中盤にある峠越えの登りには自信があった。いつも登りの練習をしていたし、比較的得意な斜度だ。つづら折りではなく、直線の一気登りというのも、リズムに乗ってぐいぐいと登っていける。ここくらい前を引っ張らないと、さすがに格好が悪い。先を行く高田さんがペースを上げも下げもしないので、黙って追い抜いて前に出た。自分のリズムで加速し、ペースを作る。後ろから特に反応はない。耳をすますと、息遣いも聞こえないし、タイヤの音もしない。「あれ? もしかして、置いてきちゃったかな」と後ろを振り向くと、口も開かず(=息切れすらせず)に高田さんがピッタリとついてきている。ちょっとうぬぼれていたようだ。高田さんは、こちらのペースに完璧に合わせて走っていたのだ。そして、「おい、アタックじゃなかったのか? 先に行くぞ」と、あっという間に置いていかれてしまった。20代のころに師匠につけてもらった練習を含め、登りであんなにきれいに置いていかれたのは初めてだった。

 予定よりもだいぶ早く折り返し地点に到着。モミジを見ながらコンビニのおにぎりを食べるつもりだったのだが、高田さんが許してくれない。「こいつのほうが、すぐに力になるぞ」と、ゼリー飲料を渡された。おにぎりを諦め、それをありがたくいただく。
 折り返し地点の受付には、いつもお世話になっているプロショップのI店長さんがいた。私と高田さんが並んでゼリー飲料を吸っているのを見て、「あれ! 珍しい顔合わせだなぁ。この二人が並んでるとは!」とおどける。店長さんの脇に行き、耳元で「あの人、何者なんですか?」と小声で訊ねると、「あの人はジョーさん。生きる伝説だよ。いろんなレースで、シニアクラスのチャンピオンになっている人」と言う。やはりタダモノではなった。「ジョー」というのは本名か、それとも愛称か。そうそう簡単には崩れそうにない走り=精神力が、どこか「矢吹丈」を思わせる気もする。店長と私のそんな会話が耳に入ったのか、高田さんは「おい、100キロをササッと走るんじゃなかったのか?」と、もう復路に出る準備を済ませている。こちらも慌てて準備して、後を追った。

 復路もずっと、前を引いてもらった。ただ、往路よりもスピードは緩く、高田さんと並走する時間が長かった。当然、会話もある。私が訊ねたことと言えば、いま振り返るとつまらないことばかりだった。でも、それに対する高田さんの答えは示唆に富んでいた。

私「ボトルには、いつも何を入れて走ってるんですか?」
高「麦茶。いろんなドリンクがあるらしいけど、苦しい時は好きなものを飲むのが一番だ」

私「普段から、身体には気を使ってるんですか?」
高「若い頃は、何を食うかが大切だ。 
  でも齢をとったら、何を食わないかが大切になる」

 高田さんから訊かれたことも、いくつか覚えている。

「はじめての自転車は、いくつの時だった?」
「ロードレーサーには、いくつまで乗るつもりだ?」
「他に何かスポーツはやってるのか?」

 三つの目の質問の意図はキビシかった。自転車の他に水泳をやっていると答えると、

「そうか、水泳か。
 いいカラダをしている割には、自転車の乗り方がヘタクソだ。
 自転車で鍛えているなら、もっと乗り方が上手いはずだ。
 たぶん、他のスポーツをやっているんだろうと思った」

 苦笑いするしかなかった。


 ゴールに到着後、高田さんは、受付のスタッフや先に着いていた知り合い、さらには犬を抱いた奥さんに向かって、スタートしてすぐパンクしたこと、予備のチューブもダメになったことを笑いながら繰り返し説明し、私の手を引っ張って「この人に助けてもらった」「この人が新しいチューブをくれた」と言い回った 。そして私に「本当に助かった。それから、一緒に走って楽しかった。どうもありがとう」と言ってくれた。私ももちろん、お礼を言った。どうしても名前を教えてくれと言われたが、なんだか気恥ずかしくて、「名乗るほどの者ではないですから」と言い、「いずれまた、一緒に走りましょう」と添えた。高田さんは、「そうだな、お互いに自転車に乗っていれば、またどこかの道で会えるよな」と、はじめてサングラスを外して握手を求めてきた。私もサングラスを外し、手を握り返した。



 その年の大みそかのことだ。心当たりのない荷物が私宛てに届いた。両手で抱えるほどの大きさの発泡スチロール箱。差出人の名前はまるで知らない。伝票の荷品欄には「ナマモノ」とある。開けてみると、殻付きの立派な牡蠣がぎっしりと詰まっていた。プクプクと泡を吹く、活きのいいものばかりだ。何事かと思ったが、封筒も入っていない。蓋の裏側に、何か入ったレジ袋が無造作にガムテープで貼りつけてあるのに気づき、それをはがして中を見ると、新品の自転車チューブと一筆箋が一枚出てきた。「秋に借りたチューブをお返しします。あの時はありがとう」と書いてあった。差出人は、「岩手県陸前高田市○○○ 佐藤上」。

「上、ジョー…、さん!?」

「秋に借りたチューブ」と言えば、それしか考えられなかった。「TAKATA」は陸前高田市の「高田」で、「ジョーさん」とは本名の「上さん」だった。曖昧のままにして忘れていたことが、一気に解消した。それにしても、牡蠣のことは何も書かず、ただ「チューブをお返しします」とは…。

 年明け早々にプロショップのI店長を訪ね、このことを話した。佐藤上さんは陸前高田市の駅前で自転車店を営んでおり、「チームTAKATA」というロードレースチームに所属する、御大クラスのレーサーだそうだ。100キロライドのあとにIさんの店に、「あの時一緒に走った人(=私)の名前と住所を教えてほしい。折り返し地点で自分と一緒にいた人だ」と上さんから電話があったそうだ。訳を訊くと「チューブを借りっぱなしだから、返さなきゃならない」と言う。I店長はすぐに私とわかり、そういう理由ならば教えても良いかと思ったそうだが、個人情報云々の面倒な決まりもあるので協会事務局に電話してくれと上さんに言った。その後、上さんは事務局(と言っても、個人の家だ)に電話し、当日の顛末と私がその日に自転車に付けていた参加ゼッケン番号(いつの間に覚えていたのか!?)を言って、私の名前と住所を聞き出したらしい。


 牡蠣の礼状を兼ねた年賀状を出して以来、年賀状だけのやり取りが続いた。私からは毎年「いつかまた一緒に走りましょう」で、上さんからは「あの時はありがとう」。それだけの言葉を、毎年の年初めに交わし合ってきた。





 311日、陸前高田市を大津波が襲った。佐藤上さんは遺体で見つかった。

 上さんの安否はI店長が知っているだろうと思ってはいたが、意気地無しの私がそれを確かめにI店長の店に行くには、まる一カ月必要だった。I店長は私を見てすぐ、「ジョーさん、ダメだったよ」と言った。「まぁ、ジョーさんのことだから、『おい、はやく逃げろ!』なんて自転車に乗って町内を言い回って、最後まで悠々と自転車乗っていて波に飲まれたんじゃないかって、みんなそう言ってるよ」とも。その時ふと、「ロードレーサーには、いくつまで乗るつもりだ?」という上さんの言葉を思い出した。

 上さん、あなたは死ぬまで、ロードレーサーに乗っていたのですか? 




 佐藤上さんは、今回の震災で命を落とした多くの方々のうち、ただ一人私が「知人」と言える人である。顔の広い方であったはずだから、私ごときとの由縁は取るに足らないものかもしれない。ましてや、笑いながら「ヘタクソ」と言われたほどだ。自転車乗りが仲間を弔うときにするように、自転車に乗って上さんの追悼ライドをすることは、恥ずかしくてできない。だから、四十九日を前に、自転車に乗るのと同じくらい好きな文章を書くことで、 佐藤上さんを弔いたい。


佐藤上さん。
何よりも、また一緒に走る約束を果たせないことが残念です。
でも、約束してくれてありがとうございました。
いただいた牡蠣は全部食べましたが、チューブはまだ新品のままです。
もしかして、お店の売り物だったんでしょうか? 値札がついていました。
そのお店も、すべて津波に流されたと聞きました。
このチューブは、お店の、そして上さんの形見だと思ってとっておきます。
決して忘れることのない思い出のものを、ありがとうございました。
あの秋の日に一緒に走った道の一部は、今は変わり果てています。
それでも、いつか必ず、またロードレーサーであの道を走る日が来ることを信じています。
自分がいくつまでロードレーサーに乗れるか、
あの時と同じく、ぜんぜん予想できず答えられません。
でも、少しでも上手く乗れるように、ずっと練習します。
そしていつか、そちらの世界で約束を果たすことができたら嬉しいです。
その時はまた、前を引っ張って下さい。


さようなら、佐藤上さん。私はあなたを忘れません。




2011年4月1日金曜日

20110401

20110401

 「2月は逃げる、3月は去る」と言うが、2011年の3月も昨日終わった。文字どおり「去られた」あるいは「置き去りにされた」ような感がある。

 例年の3月は年度末の出版ラッシュに追われ、教科書販売のための大学生協納品日から逆算し、土日や春分の日の空白を恨めしく思うほどカレンダーの日のめぐりに頭を痛める毎日となる。しかし、今年はそうではなかった。なにしろ、20点ほど出る予定だった3月の刊行物がゼロ(増刷のみ1点あり)である。印刷会社の作業工程は、311日以降は安否確認・社員自宅待機・電力復旧待ち・印刷機のメンテナンス・紙やインキの確保等々でほぼ止まり、今週からようやく動き始めたといったところだ。各大学の迅速な対応や著者の協力もあり、なんとか5月の連休前までにはすべて刊行できそうだが、いずれの本も綱渡りの進行で油断はできない。今朝も早速、「書籍用紙が通常使用のものよりも若干厚いものになりますが」「見返しに使う紙の色は、自由に選べそうにないのですが」「表紙の紙が発注のものと異なりますが、その紙もいま押さえないと流れそうなのでご相談したいのですが…」という印刷会社からの電話が相次いだ。有難いことに既刊本の売れ行きが良く、運送業者のライン復旧とともに滞っていた注文商品の納品も行なえるようになっているが、新刊書籍が出ないというのはやはり厳しい。

 一方、地元の印刷会社が受けたダメージも相当深刻らしい。ある印刷会社の営業さんが言うには「私が聞いただけで、倒産寸前だっていう同業さんが5社くらいあります」とのことだ。その真偽はともかく、どの印刷会社も苦戦していることは間違いない。
 印刷会社が持つ大きな印刷機は、厳密な水平を保って置かれる。まず、地震でその機械が数十センチも動き、水平を保っていた足場が壊れた。元に戻すと言っても、巨大な印刷機を立てなおし、前と同じように水平を保つのは容易ではない。当然、メンテナンスの専門家を呼ぶことになるが、今回の震災は広範囲の多くの印刷会社が影響を受けているので、その専門家も東日本を飛び回っている状態らしい。ある仙台の印刷会社は、14日に電話が通じてすぐにメンテナンスを依頼したそうだが、来てくれたのは二週間以上経った一昨日だという。
 紙とインクの手配については、「今のところ大丈夫です」「ウチは確保できています」という返事をしてくれるところが多い。しかし、本当に深刻になるのは一、二ヶ月後からではないかと、先々の不安を口にする営業さんもいる。実際は「今後どうなるかわからない」というところが正確なのではないだろうか。 
 自社の印刷機のメンテナンスや修理、さらには紙とインクの確保が困難であっても「他の地域に協力会社がありますから、そこで刷って製本してもらえます」と言う営業さんも多い。しかし、それでは版元から支払われる印刷費をほぼそのまま協力会社に支払うことになり、売上にはならない。「印刷機が回ればお金も回る」という印刷業は、自社の印刷機が回らなければお金は回ってこないのだ。例年なら書き入れ時の3月の売上は、前年比すれば目を疑うものになるのではないかと思う。

 さらに、地元書店も危機にある。仙台市内では既に開店している書店もあるが、地震から三週間となる今でも閉めたままの店が多い。単純に考えて、その間の売上は無い。店内の片付けや掃除のなかで、返品せざるを得なくなった商品も多いだろう。定期刊行物(雑誌類)も、三週間も間が空いてしまえばほぼ総入れ替えになるだろうが、この間に刊行された定期刊行物や月毎に出る新刊(文庫や新書等も)の納品・返品はどうなるのか。いずれにしろ、時間が経てば経つほど売上減は大きくなり、品揃えのための棚管理も大仕事になってくる。再開準備に大人数をかけて一気に再始動へ向かう書店もあれば、ほんの数人、または一人で作業にあたり、休憩時には電卓を叩いて今後の経営に頭を抱えるという書店もあるはずだ。この三週間が、書店間の「格差」を生むようなことになるのは避けたい。
 どこの書店でも買える一般雑誌や、新刊・定番の文庫・新書は、再開までに時間のかかった書店で買う。大きな書店でしか売っていないような本でも急がないものなら、あえて小さな書店で取り寄せしてもらって待つ。そんなことが、街の小さな書店さんの応援につながる。(もちろん、ネットショップや大書店での購入を避けようということでは全くない。誤解のないように)

 仙台駅ビルの「エスパル」内にある書店「ブックスミヤギ」は、本日が営業再開日だった。この店のS店長は、版元の営業担当者・取次店関係者・他の書店員からの信頼の厚い、仙台の書店業界の兄貴分のような存在である。仙台駅の新幹線ホームが壊滅的な打撃を受け、その下の階にある同店も相当の影響を受けたのではないかと、ずっと気になっていた。幸いなことに、地震後に連絡を取り合った地元版元の仲間から、Sさんはじめ同店スタッフの無事は聞いていた。しかし、店のほうはどうなっているのか。
 今日の昼前、さっそく行ってみた。お店に入り、まずはSさんを見つけてガッチリと握手。「三週間前のまんまだけど、週明けから新しいのが入ってくるから、またすぐに忙しくなるよ」と、元気がある。お店も以前と変わりない。ただ、アルバイト従業員の一人が津波で家を失ったそうで、そのことだけはどうしようか思案中らしい。「社員なら見舞金の規定があるんだけど、バイトは何もなくてね。なんとかして御見舞を出してあげようと思っている。そのためにも本を売らなきゃ」。仲間を思い、そのために前を向く姿がSさんらしい。
 311日以降、私は一冊も本を買っていない。新しい本を買って読む余裕も時間もなかったし、はじめのうちは「財布の中のお金はすべて食べ物に変え、妻に食べさせよう。とにかく開いているお店を探し、良い食材を手に入れよう」とだけ考えていた。しかし、それも落ち着き、市内の書店の再開のニュースが聞こえてきたり、逆に県内の書店の厳しい実情が聞こえてきたりすると、「地震後最初の本を、どこで買おうか」という妙な命題が頭の中で膨らんできた。真っ先に浮かんだのがブックスミヤギだった。小規模店ながら男手が少ないし、駅ビル立地で雑誌は売れるものの、その雑誌売上が三週間もゼロになるのはかなり深刻なはずだ。少しでも応援になれば嬉しいし、何より、Sさんがいる。他の市内の書店さんにも本当にお世話になっており、仕事でも個人的にも、可愛がってもらったり仲良くさせていただいている書店員さんがたくさんいる。そのことに優先順位や順番など付けられるわけがないのだが、今回はブックスミヤギで買うことに決めていた。
 「本を買いたい気持ち、三週間我慢してたんですよ。ちょっと見せて下さいね」と言って店内を歩きはじめると、「ホントに新刊が無いんだ。ごめんな。古いのばっかりなんだ」と笑いながら言われた。書店にとって新刊書が並んでいないということは、こちらの想像以上に気が引けることらしい。以前ある書店員さんが、「忙しくて何日も手を入れられていない棚をお客様に見られるのは、何日も同じ服を着たまま外出する感覚に近い」と言っていた。なるほど、わかるような気がする。

 ここ三週間、東北人の読書量はかつてないほど落ちているのではないかと思う。「読書どころではない」というのは当たり前だが、この知的損失は計り知れない。かくいう私も、ここ三週間の読書量はほとんどゼロである。
 大学時代の恩師が、「君たちは、ものを知らない。そんな君たちが厳しい社会に出て、恐れ多くも頭を使う仕事でお金をいただこうというなら、ものを知ろうとすることを止めてはいけない。呼吸をするように、本を読みなさい。朝起きて顔を洗うように、本を読みなさい。君たちはそうして本を読まなくてはいけないのです。それから、『趣味は読書です』なんて、口が裂けても言うなよ。呼吸することを趣味だと言うか? 朝起きて顔を洗うことを趣味だと言うか? 言わないだろう。君たちにとって、読書は趣味になり得ない。読書は、生きるための糧だ」と言っていた。その教えに背いたこの三週間を、どれだけかけて取り戻せばよいのだろうか。多くの東北人に、再び本を読む時が一刻も早く訪れますように。

 本を買った帰り、河北新報社の前で同社の編集委員の知人とばったり会い、20分ほど立ち話をした。その知人は地震後、「余震の中で新聞を作る」と題した読み応えのあるブログをこれまで9回更新しており、まずはその感想を伝えた。現場の記者は11日以降ほとんど休んでおらず、曜日の感覚も年度の感覚も吹き飛んでいるらしい。「311日という日がまだ終わらず、ずっと続いているような感覚すらある」という。これは優れた新聞人ならではの感覚かもしれない。ご本人は出身が福島県相馬市で、東京電力原子力発電所事故の風評被害が本当にひどいとも言っていた。避難についても、こんな状況下で住民に「自己判断」「自己責任」を求めるなんて、許されるわけがないと。
 「河北新報」は、宮城の地元紙として、被災地の避難所への無料配布などもしているのだろうか。それは定かではないが、避難されている方々にとって、毎朝読む新聞は支えになると思う。紙面から知る日々の新しいことは、「昨日とは違う今日」を感じることになる。それが「今の状況は滞ってはいない、前に進んでいるんだ」と、身のまわりの変化(それは「改善」であってほしいのだが)を信じる根拠になるだろう。震災の報道については様々な意見が見られるが、読者のそんな心理にも気づいていてくれればと思う。
 
 人と会い、話をすれば、今回の災害のまた新たな面を知る。「被災地の非被災者」である自分は、この先しばらくはそうやって災害の実像を知っていくのだろうと思う。それは、写真や映像から知ることよりも、よりリアルに心に残っていくような気がする。そしてまた、それらの多くは「この先の問題」として大きくのしかかってくる。
 ある大学出版の先輩のツイートで得た情報だが、宮城県大崎市岩出山の「有備館」の母屋が倒壊したそうだ。旧仙台藩の学問所で、現存する日本最古の学問所建築である有備館。建物の趣はもちろん、庭園の美しさは実に見事である。春の花に夏の青葉、秋の紅葉に冬の雪。その季節の色に囲まれた静謐な佇まいが、多くの人の心を掴んでいる。私も何度も足を運んだ。
 勤務している大学出版の人気シリーズ「人文社会科学講演シリーズ」は、東北大学大学院文学研究科が行なう市民講座を再録したもので、その講座は会場にちなんで「有備館講座」の別名がある。もちろん、上記した有備館のことだ。地元にある日本最古の学問所で、地元大学の研究者が市民向けの講座をするという趣向は、ロマンあふれる素晴らしいものだと常々思っていた。有備館の倒壊が、この講座の今後にどのような影響を与えるのか。これもまた、地震が残した「この先の問題」である。


 仙台では、「これからですね」という挨拶を、今週くらいから交わせるようになってきた。無事の確認と喜び、そして身のまわりの支えと立て直しのあとは、決して楽観できない厳しい今後に向けて、互いに鼓舞し合う。仙台人がいま経験しているこのプロセスは、仙台をまた少し「災害に強い街」にするように思う。


 生活面でも、少しずつ変化が出てきている。今週はじめに水が復旧し、大きな便利を取り戻した。それなのに「早くガスが来れば」「並ばずにガソリンを入れられるようになれば」「通行止めが解除されれば」と、すぐにまた次の便利を求める自分がいる。二週間前の自分に、怒鳴りつけてほしいくらいだ。まだまだ粘り強く、しぶとくやっていこう。
 被災地の非被災者としてようやくここまで来たのだから、残りの「便利を失った生活」は「練習」と思うことにした。いずれまた、全ての便利を失う時が来るかもしれない。大災害はいつでもやってくるし、実際に大きな余震は毎日のようにある。記憶が鮮明な今のうちに、「便利を失った生活」の練習を続けておこう。この日々は、またとない「練習」の日々にできる。本当はまだまだ本番が続いているのだが、「本番は最高の練習」とは水泳から学んだ言葉である。また「練習でできないことが本番でできるわけがない」ということも、「足元に積み重ねなければ、高いところには行けない」ということも、同じく水泳を通して身をもって理解しているつもりだ。そして「練習ハ不可能ヲ可能ニス」という言葉も。これも前に書いた恩師から教わった、小泉信三氏の言葉である。そうだ、今こそ小泉信三著の『平生の心がけ』(講談社学術文庫)を読み直そう。今こそ「平生」を考える絶好の機会なのだ。



 今日「ブックスミヤギ」で購入した本は以下の通り。

①『すべてはどのように終わるのか あなたの死から宇宙の最後まで』
  (クリス・インピー著/小野木明恵訳/早川書房)
②『哲学する赤ちゃん』
  (アリソン・ゴブニック著/青木玲訳/亜紀書房)
③『職業としての科学』
  (佐藤文隆/岩波新書)
④『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』
  (竹田恒泰/PHP新書)
⑤『「患者様」が医療を壊す』
  (岩田健太郎/新潮選書)
⑥『凛とした生き方』
  (金美齢/PHP文庫)
⑦『袖のボタン』
  (丸谷才一/朝日文庫)
⑧『三浦太郎のあかちゃんえほん(全3巻)』
  (三浦太郎/こぐま社)

 ①は前から気になっていた一冊。3.11の後の最初の一冊というのは皮肉になってしまうが。②は目の前に最高のサンプルがいるので。③は職業柄の一冊。⑦は「丸谷調」で綴られる活字に目を通すだけで、きっと心が豊かになれるはず。⑧は息子への最初の本。震災後、営業再開した「ブックスミヤギ」で買ったということも、いずれ教えてやりたい。

 最後になったが、河北新報編集委員の知人による「余震の中で新聞を作る」が読めるブログ「café vita」はこちら→http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/