2011年12月30日金曜日

20111230

20111230

先日の、ある友人とのメール(携帯電話)のやり取り。
東京出張の翌日、帰る前に会えたら会おうと約束をしていた。
あいにく都合がつかず、私から断りを入れることになった。

私:「今回は会えそうにないので、また今度の機会にましょう」
友:「わかりました。残念ですが、(私)さんにはいつでも会える安心感があります(笑)」

普段から交わす、珍しくもないやり取り。
ただ、ちょっと考えるところがあり、余計な一文を返した。

私:「嬉しいことを言ってくれてありがとう。
でも、3月11日以降では、そんな安心感の多くが失われてしまったよね。
安心感とは、なんとも脆いものか…」

送信した後、わざわざそんなことを書かなくてもと少し後悔したが、
彼なら誤解なく受け止めてくれるだろうと考えた。
今年痛切に思い知らされた「脆さ」について、
少なくとも共有できる友人の一人と信じているからだ。



26人。
私の母の友人で、宮城県南三陸町に住むHさんは、
3月11日の津波被害によって親戚・友人を亡くした。
皆、普段から付き合いのある身近な人々だ。
その数、26人。

想像できない。
想像しようとして、身近な親戚・知人の顔を思い浮かべ、
彼ら彼女らを亡くしたことを考えようとして慌ててやめる。
大切な人を一人ひとり頭の中で消していくなんて、
いったい何をしているのか、何を考えているのか、と。
そして、「想像できない」とはこういうことなのかと、気づく。

私には想像すらできないことが、Hさんには起きた。
その違いは何かと考える。
考えつくどの答えにもある「脆さ」に、愕然とする。



部屋が冷えたので、灯油ストーブをつける。
この灯油は、昨日巡回販売で買ったものだ。
灯油の巡回販売がやって来る、当たり前。
しかし、巡回車にガソリンが入っていなければ、やって来ない。
3月11日以前であれば、
「売る油があっても、それを運ぶ油がないなんて」
と笑い話にもなりそうだが、
そんなことが3月11日以後には実際に起きた。
あの頃、徒歩通勤の途中に見たガラガラの車道。
そして、まるで黙ってその場にしゃがんでいるような、
ガソリンが(十分には)入っていないクルマの数々。
そして暖まり始めた部屋と、灯油ストーブの音。
なんと「脆さ」に囲まれた生活か。




「絆」という字の呆れるほどの輝かしさに消されてしまいそうだが、
自分にとっての今年の一字は「脆」のように思う。
脆さを知り、脆さに泣き、
今も、脆さに怯えている。

「脆」には「もろい。こわれやすい。よわい」の他に、
「やわらかい」、さらに「かるい。かるがるしい」の意もあるらしい。
(『新漢語林』初版第4刷 鎌田正/米山寅太郎 大修館書店)
「かるい。かるがるしい」の意からも、
3月11日以降の様々な事象(とくに為政や引責の場面で)が思い起こされる。
かるがるしさを知り、かるがるしさに泣き、
今も、かるがるしさに怯えている。



「脆」を克服すること。
東日本大震災があった今年を締める時、
自分に言い聞かせるとしたらこれだろう。
3月11日以降は、「脆」にやられた一年だった。
ただ、その「脆」は3月11日以降に顕在化しただけで、
普段から「脆」は「脆」のまま身の回りにある。
この「脆」をいかに「脆」でないようにするか。
わずかばかりでもいい、コツコツと「脆」を克服していきたい。
それは想像以上に困難なことかもしれないが、
あんな酷いことが身近で起きて、何もしないわけになんかいかない。
なんとかして、「脆」を克服していこうと思う。

「脆」の克服にどんな具体策があるのか、まだわからない。
簡単なことも多そうだが、相当難しいことも多そうだ。
でも、やらずにはいられない。
それが今の正直な気持ちだ。




「安心感とは、なんとも脆いものか…」
と送ったメールには、しばらく返信がなかった。
やはり余計なことをしたと反省し、
言い訳がましいメールを打とうとしたその時、返信が来た。

「たしかにあれ以降、会える時に会うという意識が強くなりました。
でも、(私)さんとは、そういう意味でも、何があっても、
お互いに生き延びてまたお会いできる気がします(笑)。
出張、お疲れさまでした!」

厄介な問いに対して、
こんなに気持ちの良い返し方があるとは。
本当に良い友人を持ったものだ。
そしてふと思う。
この返信の中に、「脆」の克服の大きなヒントがあるのではないかと。

2011年9月11日日曜日

20110911

20110911

 おそらく、多くの人によって様々なことが書かれたであろう昨日と今日、普段と変わらない土日を過ごしている。妻と息子と遊び、近所の商店に買い物に行き、クラブで仲間とともに泳ぎ、6時間半寝て、起きて本を読み、妻と息子と遊び、自慢のカレーを作り、また本を読んでいる。

 本当は閖上に行こうと考えていた。今回の津波被災地の中で、以前にもっとも多く通った地だ。そこにあった自転車道と海浜プールは、子どもの頃から両親に連れて行ってもらい、ロードレーサーに乗るようになってからは格好の練習場所となり、いくつかの大会で何枚かの賞状を手にした場所である。この夏愛用した水筒は、去年の夏に仲間と出たリレートライアスロンで手にした優勝賞品だ。三人で、まるでワールドカップの優勝トロフィーのごとくこの水筒を頭上にかざし、おどけながら喜んだのもこの施設の正面階段だった。佐藤上さんと出会い、別れたのも、この場所だ。

 正式名称「名取サイクルスポーツセンター」は今年311日の津波被害を受け、現在「閉館中」もしくは「解散」したと聞いている。その措置も、航空写真で閖上の被害の大きさを見れば当然だと感じる。
 センターの惨状を見に行くべきかどうか。自分にとって大切な場所であることは間違いない。それならば、やはり見に行くべきなのではないのか。そんな自問自答を繰り返していた。

 今日に至るまで、そして今日も閖上に行かない理由。
 それは、閖上をこの目で見る自信がないのだ。

 3.11以降、多くの人に「現地を見ておいたほうがいい」と言われた。「1000年に一度の災害なんだから」「地元で起きた出来事なんだから」「人にものを伝える仕事に就いているなら」などと、それらのすべては善意の進言であった(と、受け取っている)。ありがたいアドヴァイスであるし、なかには私のフットワークの悪さ、腰の重さを歯痒く思い、背中を押そうとした指摘・苦言であったかもしれない。それらにもかかわらず、私は現場を見ていない。「もし、行くならば」と考えていた閖上にも、今日も足が向かなかった。やはり、自信がない。

 私は現地に行き、惨状を見る自信がない。もし仕事で必要があれば、それを理由に行ったと思う。または親類縁者がいて、自分の力が必要だと思えば向かっただろう。しかしそのような状況にはならず、今日まで現地に行く状況も理由も生じなかった。
 そんな私が現地に行くことは、自分の中での解釈では(そう、あくまで自分の中での解釈だ)、かぎりなく「見物」に近くなりそうな気がしている。「たとえ“見物”でもいいじゃないか」と自分の気持ちにケリをつけることがどうしてもできない。要は、自分自身にケリをつける自信がないのだ。

 

 阪神・淡路大震災が起きたとき、大学の同級生の多くが現地入りしてボランティア活動に従事した。ゼミやサークルといった単位で参加し、現地入りしてからの役割も整っているというケースも多かった。そんな組織に何のつながりも持たない私と親友のMは、それでも被災地を見よう、現地の様子を直接知ろうと、ある夜二人だけで東海道線に乗り神戸へ向かった。
 一泊二日の帰りの東海道線車内。二人ともただ黙って座席に座り、目を合わせることもなかったと記憶している。喧嘩したわけではない。彼とは同じ思いでいた(だからあえて、先ほど彼をこの文章に登場させる際、滅多に使わない言葉を冠した)。

「我々は、なんと無責任か」と。

 そして、あれは東京駅だったか、それとも新宿駅だったか、人の数の多いホームで彼が言った「オレたちのような馬鹿に非日常を見物させるために、神戸があるんじゃないんだよな」という言葉。それがずっと胸の奥に残っている。



 「責任」という言葉は、今回の震災以降に最も多く考えた言葉の一つだ。報道や本で知る、責任感に満ちた多くの行動や、不便な生活の中で近所や身の回りでもたくさん目にした、責任を持った言葉やふるまい。一方で、責任逃れしているようにしか感じられず、無責任この上ないと思わざるを得ない言葉の数々。残念ながらその多くが、大きな使命を背負う立場にある人からのものだった。それ以外にも、「絶対に乗り越えられる! ずっと応援している!」というある有名人の言葉など、ラジオで耳にするたびにこっちかが心配になるほど無責任に思えた。復興はそう簡単なことではないですよ、ずっと応援するって、何をどう続けるおつもりなんですか、と。

 『利他学』(小田亮/新潮選書)という本を読んだのも、震災後多く経験した「利他」という心理の仕組みをもっと知りたかったのに加え、翻って「利己」の心理もその仕組みを深くわかるのではないかと期待したためだ。責任ある利他と、無責任な利己。この極端に対立する二つを比べて見続けたのが、この半年間だった。

 できることなら、責任を持ちたいと思う。「責任を持って行動する」と宣言するのはあまりに大きなことだし、それを100%実践して生きることは本当に困難だと思う。また、主観評価ではなく客観評価されるべきものだろうから、他人に無責任と指摘され、「責任をとれ」と言われればそれまでだ。それでも、小さなことからでいい、できる範囲のことからでいいから、責任を持った行動をとっていきたい。それを個人的にでも進めていくことが、無責任な利己に対抗する、唯一の手段であるように思う。

 当面の自分の責任。それは、ある約束を守ることだ。その約束とは、震災後にある文章に書いたことで、その時は実現の見通しはまったく立っていなかった。しかし、やっとその一歩めが見え始めている。まだまだ大きな壁がたくさんあるが、なんとか、なんとか、実現させて約束を果たしたい。それが当面の自分の責任であると、震災後半年を迎える今日、ここに記しておく。

 この責任を果たすことができれば…と、そもそも責任とは果たしてしかるべきことなのだろうが、やっと自分も「震災後」に身を置けるような気がする。それは、被災現場に行くこと、閖上をこの目で見る自信につながるかもしれない。その時はたぶん「見物ではない」と、自分の気持ちにケリをつけてロードレーサーに乗ることができるだろう。

 それまでは、
 震災、未だ終わらず。
 復興、未だ長き途の最中。

2011年6月2日木曜日

20110602

20110602


一週間ほど前のある会合で、僭越ながら披露したスピーチ。
ほぼ原文のママ(のはず)。
備忘録の意味もあると、照れ隠しにことわりつつ。




 
 まずは、皆様方にたいへん大きなご心配をおかけしました。また、たくさんの温かいメッセージを頂戴しまして、誠にありがとうございました。


 おかげさまで、幸運なことに、小会職員・理事、全員無事でおりました。ただ、これは本当に「幸運なこと」でございまして、少しご縁を広げるだけで、お家を無くされた方、まだ避難所にいらっしゃる方、そして命を落とされたという方が、周りには多くいらっしゃいます。私も、友人を一人亡くしました。
 それゆえ、世間でよく耳にする、なんとなくの「復興」や、なんとなくの「がんばろう」、あるいは「日本の力を信じている」という言葉には実感を持てず、簡単には受け入れられない気持ちがあります。それらの言葉が勝手に頭の上をフワフワと飛び交っているような、そんな印象を抱いているのが正直なところです。

 そんな中、被災地にある大学出版部に属する一人として、今回の震災であらためて「本を読むこと」「本を作ること」について考えました。

 被災に遭っているなかで、本はどんな役割を果たすことができるのか。ある人が言うには、ハードカバーの厚い本を開いて頭の上に乗せ、それを紐で括りつければヘルメット代わりになるそうです。特に、我々大学出版部の刊行する本は分厚いものが多いので、良いヘルメットになる。なかなかの妙案ですが、重過ぎて、首が鞭打ちになってしまうかもしれません。少なくとも、被災地の仙台で本のヘルメットをしている人を、実際に見かけることはありませんでした。
 それは冗談ですが、本当の「本の力」を目の当たりにもしました。震災後しばらくして、仙台市内の書店が再開した時です。紀伊國屋やジュンク堂、さらには個人経営の小さな書店に至るまで、本を求めるお客で店があふれるほどでした。定期刊行物を買って、自らの日常を取り戻そうとする人。子どものための読み聞かせの絵本や手遊びの本を求める、一目見て避難所から来たとわかる人。そして、吉村昭さんの『三陸海岸大津波』や震災・原発関連の本を買い求める若い人。みんな本を両手で持ち、胸に抱えるようにして買って帰っていきました。大学を卒業して以来、ずっと出版に関わる仕事をしてきましたが、この時ほど「本の力」を強烈に感じたことはありませんでした。

 本には、力があります。「日本の力を信じている」という言葉を、単純に受け入れていいのかはわかりません。でも、「本の力を信じている」なら、受け入れてもいい。むしろ、声を大にして「信じている!」と言いたい。そう思っています。

 先ほど、なんとなくの「復興」や、なんとなくの「がんばろう」という言葉には実感が持てないと言いました。でも、実感が持てる「復興」や「再生」も、仙台ではたしかに始まっています。その息吹が、仙台の街の中で感じられつつあります。

 仙台は、元気です。

 そんな仙台に、皆さん是非いらしてください。もちろん、その際には小会にも遊びにいらしてください。先日、事務局を片平キャンパス内の新たな場所に移転させたのですが、窓を開けると目の前に、あの魯迅が仙台医学専門学校時代に学んだ、通称「魯迅の階段教室」があります。旧い木造校舎ですが、今回の大地震でもびくともしませんでした。「歴史の強さ」を感じます。その歴史に学び、その歴史に負けないよう、小会も頑張っていきたいと思っております。これからも、どうぞ小会をよろしくお願い申し上げます。この度は誠にありがとうございました。

2011年4月27日水曜日

20110427

20110427

 遡ること、数年前の秋。

 その日は、宮城県サイクリング協会が主催する「秋の100キロライド」の開催日であった。名取市閖上にある名取市サイクルスポーツセンターを出発して、伊具郡丸森町の不動尊公園で折り返す、全長約100キロの自転車走行イベントである。海沿いにあるサイクルスポーツセンターは仙台エリアの自転車乗りの聖地であり、不動尊公園は宮城県南屈指の紅葉スポット。この二つを結ぶ同イベントは、毎年この地の自転車シーズンの終わりを告げるものとなっている。通称「(聖地と不動尊の)巡礼ライド」、または「落ち葉の100キロライド」などと呼ぶ人もいる。自転車の車列を巡礼者に見立てた前者もいいが、ロードレーサーの細いタイヤで、車道脇に寄せられた落ち葉をかさかさと踏んで走ることから付いた後者のほうが、私は気に入っている。このスポーツが常に季節とともにあることを感じさせてくれる、多くの自転車人に愛されているイベントだ。

 私はいつも、この手のイベントはなるべく遅くエントリーする。申込み開始直後にエントリーすると、スタート順も前のほうになり、やる気満々の連中に巻き込まれてレースさながらの「マジ走り」になってしまう。それはそれで面白いのだが、まわりの景色よりもコースの先々の起伏のほうに注意がいってしまい、「あの登りでアタックをかけよう」「後半の平坦地まで、脚を残しておこう(「脚を残す」=脚力を温存する)」などと考えているうちにゴールを迎えてしまう。これではせっかくの「落ち葉の100キロライド」を楽しめない。そのため、なるべく遅くエントリーし、前走集団を追わず後続からも煽られず、ゆっくりと走ることにしている。

 その日も、スタートは最終組に近かった。細い松並木の道を抜け、左に太平洋を見ながら南下。最終組の中でも位置を後ろにし、先行組を見送ってしんがりを気取る。気楽な一人旅を楽しもうと、スピードも落とした。

 しばらく走ると、両脇に田んぼが広がる橋を渡った先で人がうずくまっている。レースジャージを着ているようだ。たぶん参加者だろう。すぐ脇にロードレーサーが横倒しになっている。もし落車なら怪我が心配だ。近くまで行って声をかけた。

「だいじょうぶですか?」
パンクしちまった」

 声の感じはだいぶ年上で、かなりのベテランだと感じた。

「予備のチューブ、あります?」
「取り換えてたら、予備のほうもダメになった」

 ロードレーサーが練習に出るときは、たいてい予備のチューブと簡易型のエアポンプを携帯している。パンクしたら走れなくなるし、走れないということは帰れないということだ。私も常に、予備の新品チューブを持って出かけるようにしている。その人も予備を持っていたようだが、交換の作業で予備チューブをダメにしてしまったらしい。起こり得ることではあるが、あまりに運がないとしか言いようがない。自分の自転車のメーターを見ると、スタートからまだ8キロしか走っていない。100キロライドを8キロで終えるというのは酷だ。それならばと、自分の予備チューブを提供することにした。 
 ことわっておくが、これは珍しいことではない。ロードレーサーが予備チューブを携帯するのは、自助のためだけではなく、他のロードレーサー(=仲間)にトラブルが起きたときに助けるためで、ごく当たり前のこととの共通認識がある。少なくとも、私は自転車の師匠からそう教わった。ちなみに、ボトルホルダーにボトルを二つ付けておくのも、一つは自分のため、もう一つはいつでも誰かにあげるためだ。だから、一つは自分の好みのもの(例えばスポーツドリンクやアミノ酸飲料)を入れておき、もう一つは好みを問わない水を入れておく。水はケガをした時に傷口を洗ったり、暑い時には頭や身体にかけることもできる。二つのボトルのうちの一つは、「自分のボトルだが、誰かのボトル」なのだ。チューブにも同じことが言える。

「よかったら、チューブ使ってください」
いいのか? 自分のがパンクしたら、どうすんだ?」
「いやぁ、パンクする前に、ササッと100キロ走っちゃいますよ」

 サングラス越しなので目の表情はわからないが、相手の口元が緩んだ。

「おっ、なかなか言うなぁ。 それじゃぁ、ありがたくもらうよ」

 そう言って手早くチューブを嵌め(本当に、無駄のない見事な仕事ぶりだった)、手早くギアやブレーキのチェックも済ませた。その一連の流れは、美しいほどだった。

「お礼に、行きも帰りも俺が前を引っ張るよ。それでいいだろ?」
「…そうですか。それじゃぁ、せっかくですから」

「前を引っ張る」とは、縦列で走る際に先頭を走るということである。前を走れば風の抵抗も受けるし、コースの誘導やペースメイクもしなくてはいけない。逆に、後ろを走れば風の抵抗は無く、ついて行けばいいだけだ。本格的なロードレースでは、自分のチームのエースの体力を温存させるために、アシストの役割を果たす選手が前を引っ張ることが多い。趣味のファンライドでも、前を引っ張るのは上級者の役目である。
 かなりのベテランとは見えるが、年齢差は明らかだ。60代半ばくらいというところか。今はそう言ってくれているが、いずれは自分が引っ張ることになるだろう。それでも、せっかくのご縁だから一緒に走ってみよう。意外と面白いかもしれない。そう考え、「よろしくお願いします」と言って後ろについた。前を行く色褪せたジャージの背中には「TAKATA」とプリントしてある。チーム名だろうか。名前も訊かないまま走り始めてしまったので、とりあえず自分の中では「高田さん」と呼ぶことにした。ベテランの走りを後ろから見て勉強させてもらおうと、のんびりした気持ちでペダルを回し始めた。

 高田さんは、怪物だった。とにかく速い。軽めのギアを高速で回転させ、平地ではどんどん加速する。コーナーリングも攻めの一辺倒だ。小さい身体を折りたたみ、低い姿勢で走るので、身体が大きいこちらとしてはまったく風よけにならない。ペースもイメージしていたものより5割増しくらいで、このままだと復路の脚が少し心配になるほどだ。よく見てみれば、オールドブランドの年季の入ったシューズにグサリと刺さる高田さんの脚は、タダモノではない。焼けた肌が筋肉で押し上げられ、血管も浮き出ている。完全にロードレーサーの脚だ。エラい人と一緒に走るはめになったもんだと、のんびりを返上して「TAKATA」の背中を追うことにした。

 それでも、コースの中盤にある峠越えの登りには自信があった。いつも登りの練習をしていたし、比較的得意な斜度だ。つづら折りではなく、直線の一気登りというのも、リズムに乗ってぐいぐいと登っていける。ここくらい前を引っ張らないと、さすがに格好が悪い。先を行く高田さんがペースを上げも下げもしないので、黙って追い抜いて前に出た。自分のリズムで加速し、ペースを作る。後ろから特に反応はない。耳をすますと、息遣いも聞こえないし、タイヤの音もしない。「あれ? もしかして、置いてきちゃったかな」と後ろを振り向くと、口も開かず(=息切れすらせず)に高田さんがピッタリとついてきている。ちょっとうぬぼれていたようだ。高田さんは、こちらのペースに完璧に合わせて走っていたのだ。そして、「おい、アタックじゃなかったのか? 先に行くぞ」と、あっという間に置いていかれてしまった。20代のころに師匠につけてもらった練習を含め、登りであんなにきれいに置いていかれたのは初めてだった。

 予定よりもだいぶ早く折り返し地点に到着。モミジを見ながらコンビニのおにぎりを食べるつもりだったのだが、高田さんが許してくれない。「こいつのほうが、すぐに力になるぞ」と、ゼリー飲料を渡された。おにぎりを諦め、それをありがたくいただく。
 折り返し地点の受付には、いつもお世話になっているプロショップのI店長さんがいた。私と高田さんが並んでゼリー飲料を吸っているのを見て、「あれ! 珍しい顔合わせだなぁ。この二人が並んでるとは!」とおどける。店長さんの脇に行き、耳元で「あの人、何者なんですか?」と小声で訊ねると、「あの人はジョーさん。生きる伝説だよ。いろんなレースで、シニアクラスのチャンピオンになっている人」と言う。やはりタダモノではなった。「ジョー」というのは本名か、それとも愛称か。そうそう簡単には崩れそうにない走り=精神力が、どこか「矢吹丈」を思わせる気もする。店長と私のそんな会話が耳に入ったのか、高田さんは「おい、100キロをササッと走るんじゃなかったのか?」と、もう復路に出る準備を済ませている。こちらも慌てて準備して、後を追った。

 復路もずっと、前を引いてもらった。ただ、往路よりもスピードは緩く、高田さんと並走する時間が長かった。当然、会話もある。私が訊ねたことと言えば、いま振り返るとつまらないことばかりだった。でも、それに対する高田さんの答えは示唆に富んでいた。

私「ボトルには、いつも何を入れて走ってるんですか?」
高「麦茶。いろんなドリンクがあるらしいけど、苦しい時は好きなものを飲むのが一番だ」

私「普段から、身体には気を使ってるんですか?」
高「若い頃は、何を食うかが大切だ。 
  でも齢をとったら、何を食わないかが大切になる」

 高田さんから訊かれたことも、いくつか覚えている。

「はじめての自転車は、いくつの時だった?」
「ロードレーサーには、いくつまで乗るつもりだ?」
「他に何かスポーツはやってるのか?」

 三つの目の質問の意図はキビシかった。自転車の他に水泳をやっていると答えると、

「そうか、水泳か。
 いいカラダをしている割には、自転車の乗り方がヘタクソだ。
 自転車で鍛えているなら、もっと乗り方が上手いはずだ。
 たぶん、他のスポーツをやっているんだろうと思った」

 苦笑いするしかなかった。


 ゴールに到着後、高田さんは、受付のスタッフや先に着いていた知り合い、さらには犬を抱いた奥さんに向かって、スタートしてすぐパンクしたこと、予備のチューブもダメになったことを笑いながら繰り返し説明し、私の手を引っ張って「この人に助けてもらった」「この人が新しいチューブをくれた」と言い回った 。そして私に「本当に助かった。それから、一緒に走って楽しかった。どうもありがとう」と言ってくれた。私ももちろん、お礼を言った。どうしても名前を教えてくれと言われたが、なんだか気恥ずかしくて、「名乗るほどの者ではないですから」と言い、「いずれまた、一緒に走りましょう」と添えた。高田さんは、「そうだな、お互いに自転車に乗っていれば、またどこかの道で会えるよな」と、はじめてサングラスを外して握手を求めてきた。私もサングラスを外し、手を握り返した。



 その年の大みそかのことだ。心当たりのない荷物が私宛てに届いた。両手で抱えるほどの大きさの発泡スチロール箱。差出人の名前はまるで知らない。伝票の荷品欄には「ナマモノ」とある。開けてみると、殻付きの立派な牡蠣がぎっしりと詰まっていた。プクプクと泡を吹く、活きのいいものばかりだ。何事かと思ったが、封筒も入っていない。蓋の裏側に、何か入ったレジ袋が無造作にガムテープで貼りつけてあるのに気づき、それをはがして中を見ると、新品の自転車チューブと一筆箋が一枚出てきた。「秋に借りたチューブをお返しします。あの時はありがとう」と書いてあった。差出人は、「岩手県陸前高田市○○○ 佐藤上」。

「上、ジョー…、さん!?」

「秋に借りたチューブ」と言えば、それしか考えられなかった。「TAKATA」は陸前高田市の「高田」で、「ジョーさん」とは本名の「上さん」だった。曖昧のままにして忘れていたことが、一気に解消した。それにしても、牡蠣のことは何も書かず、ただ「チューブをお返しします」とは…。

 年明け早々にプロショップのI店長を訪ね、このことを話した。佐藤上さんは陸前高田市の駅前で自転車店を営んでおり、「チームTAKATA」というロードレースチームに所属する、御大クラスのレーサーだそうだ。100キロライドのあとにIさんの店に、「あの時一緒に走った人(=私)の名前と住所を教えてほしい。折り返し地点で自分と一緒にいた人だ」と上さんから電話があったそうだ。訳を訊くと「チューブを借りっぱなしだから、返さなきゃならない」と言う。I店長はすぐに私とわかり、そういう理由ならば教えても良いかと思ったそうだが、個人情報云々の面倒な決まりもあるので協会事務局に電話してくれと上さんに言った。その後、上さんは事務局(と言っても、個人の家だ)に電話し、当日の顛末と私がその日に自転車に付けていた参加ゼッケン番号(いつの間に覚えていたのか!?)を言って、私の名前と住所を聞き出したらしい。


 牡蠣の礼状を兼ねた年賀状を出して以来、年賀状だけのやり取りが続いた。私からは毎年「いつかまた一緒に走りましょう」で、上さんからは「あの時はありがとう」。それだけの言葉を、毎年の年初めに交わし合ってきた。





 311日、陸前高田市を大津波が襲った。佐藤上さんは遺体で見つかった。

 上さんの安否はI店長が知っているだろうと思ってはいたが、意気地無しの私がそれを確かめにI店長の店に行くには、まる一カ月必要だった。I店長は私を見てすぐ、「ジョーさん、ダメだったよ」と言った。「まぁ、ジョーさんのことだから、『おい、はやく逃げろ!』なんて自転車に乗って町内を言い回って、最後まで悠々と自転車乗っていて波に飲まれたんじゃないかって、みんなそう言ってるよ」とも。その時ふと、「ロードレーサーには、いくつまで乗るつもりだ?」という上さんの言葉を思い出した。

 上さん、あなたは死ぬまで、ロードレーサーに乗っていたのですか? 




 佐藤上さんは、今回の震災で命を落とした多くの方々のうち、ただ一人私が「知人」と言える人である。顔の広い方であったはずだから、私ごときとの由縁は取るに足らないものかもしれない。ましてや、笑いながら「ヘタクソ」と言われたほどだ。自転車乗りが仲間を弔うときにするように、自転車に乗って上さんの追悼ライドをすることは、恥ずかしくてできない。だから、四十九日を前に、自転車に乗るのと同じくらい好きな文章を書くことで、 佐藤上さんを弔いたい。


佐藤上さん。
何よりも、また一緒に走る約束を果たせないことが残念です。
でも、約束してくれてありがとうございました。
いただいた牡蠣は全部食べましたが、チューブはまだ新品のままです。
もしかして、お店の売り物だったんでしょうか? 値札がついていました。
そのお店も、すべて津波に流されたと聞きました。
このチューブは、お店の、そして上さんの形見だと思ってとっておきます。
決して忘れることのない思い出のものを、ありがとうございました。
あの秋の日に一緒に走った道の一部は、今は変わり果てています。
それでも、いつか必ず、またロードレーサーであの道を走る日が来ることを信じています。
自分がいくつまでロードレーサーに乗れるか、
あの時と同じく、ぜんぜん予想できず答えられません。
でも、少しでも上手く乗れるように、ずっと練習します。
そしていつか、そちらの世界で約束を果たすことができたら嬉しいです。
その時はまた、前を引っ張って下さい。


さようなら、佐藤上さん。私はあなたを忘れません。




2011年4月1日金曜日

20110401

20110401

 「2月は逃げる、3月は去る」と言うが、2011年の3月も昨日終わった。文字どおり「去られた」あるいは「置き去りにされた」ような感がある。

 例年の3月は年度末の出版ラッシュに追われ、教科書販売のための大学生協納品日から逆算し、土日や春分の日の空白を恨めしく思うほどカレンダーの日のめぐりに頭を痛める毎日となる。しかし、今年はそうではなかった。なにしろ、20点ほど出る予定だった3月の刊行物がゼロ(増刷のみ1点あり)である。印刷会社の作業工程は、311日以降は安否確認・社員自宅待機・電力復旧待ち・印刷機のメンテナンス・紙やインキの確保等々でほぼ止まり、今週からようやく動き始めたといったところだ。各大学の迅速な対応や著者の協力もあり、なんとか5月の連休前までにはすべて刊行できそうだが、いずれの本も綱渡りの進行で油断はできない。今朝も早速、「書籍用紙が通常使用のものよりも若干厚いものになりますが」「見返しに使う紙の色は、自由に選べそうにないのですが」「表紙の紙が発注のものと異なりますが、その紙もいま押さえないと流れそうなのでご相談したいのですが…」という印刷会社からの電話が相次いだ。有難いことに既刊本の売れ行きが良く、運送業者のライン復旧とともに滞っていた注文商品の納品も行なえるようになっているが、新刊書籍が出ないというのはやはり厳しい。

 一方、地元の印刷会社が受けたダメージも相当深刻らしい。ある印刷会社の営業さんが言うには「私が聞いただけで、倒産寸前だっていう同業さんが5社くらいあります」とのことだ。その真偽はともかく、どの印刷会社も苦戦していることは間違いない。
 印刷会社が持つ大きな印刷機は、厳密な水平を保って置かれる。まず、地震でその機械が数十センチも動き、水平を保っていた足場が壊れた。元に戻すと言っても、巨大な印刷機を立てなおし、前と同じように水平を保つのは容易ではない。当然、メンテナンスの専門家を呼ぶことになるが、今回の震災は広範囲の多くの印刷会社が影響を受けているので、その専門家も東日本を飛び回っている状態らしい。ある仙台の印刷会社は、14日に電話が通じてすぐにメンテナンスを依頼したそうだが、来てくれたのは二週間以上経った一昨日だという。
 紙とインクの手配については、「今のところ大丈夫です」「ウチは確保できています」という返事をしてくれるところが多い。しかし、本当に深刻になるのは一、二ヶ月後からではないかと、先々の不安を口にする営業さんもいる。実際は「今後どうなるかわからない」というところが正確なのではないだろうか。 
 自社の印刷機のメンテナンスや修理、さらには紙とインクの確保が困難であっても「他の地域に協力会社がありますから、そこで刷って製本してもらえます」と言う営業さんも多い。しかし、それでは版元から支払われる印刷費をほぼそのまま協力会社に支払うことになり、売上にはならない。「印刷機が回ればお金も回る」という印刷業は、自社の印刷機が回らなければお金は回ってこないのだ。例年なら書き入れ時の3月の売上は、前年比すれば目を疑うものになるのではないかと思う。

 さらに、地元書店も危機にある。仙台市内では既に開店している書店もあるが、地震から三週間となる今でも閉めたままの店が多い。単純に考えて、その間の売上は無い。店内の片付けや掃除のなかで、返品せざるを得なくなった商品も多いだろう。定期刊行物(雑誌類)も、三週間も間が空いてしまえばほぼ総入れ替えになるだろうが、この間に刊行された定期刊行物や月毎に出る新刊(文庫や新書等も)の納品・返品はどうなるのか。いずれにしろ、時間が経てば経つほど売上減は大きくなり、品揃えのための棚管理も大仕事になってくる。再開準備に大人数をかけて一気に再始動へ向かう書店もあれば、ほんの数人、または一人で作業にあたり、休憩時には電卓を叩いて今後の経営に頭を抱えるという書店もあるはずだ。この三週間が、書店間の「格差」を生むようなことになるのは避けたい。
 どこの書店でも買える一般雑誌や、新刊・定番の文庫・新書は、再開までに時間のかかった書店で買う。大きな書店でしか売っていないような本でも急がないものなら、あえて小さな書店で取り寄せしてもらって待つ。そんなことが、街の小さな書店さんの応援につながる。(もちろん、ネットショップや大書店での購入を避けようということでは全くない。誤解のないように)

 仙台駅ビルの「エスパル」内にある書店「ブックスミヤギ」は、本日が営業再開日だった。この店のS店長は、版元の営業担当者・取次店関係者・他の書店員からの信頼の厚い、仙台の書店業界の兄貴分のような存在である。仙台駅の新幹線ホームが壊滅的な打撃を受け、その下の階にある同店も相当の影響を受けたのではないかと、ずっと気になっていた。幸いなことに、地震後に連絡を取り合った地元版元の仲間から、Sさんはじめ同店スタッフの無事は聞いていた。しかし、店のほうはどうなっているのか。
 今日の昼前、さっそく行ってみた。お店に入り、まずはSさんを見つけてガッチリと握手。「三週間前のまんまだけど、週明けから新しいのが入ってくるから、またすぐに忙しくなるよ」と、元気がある。お店も以前と変わりない。ただ、アルバイト従業員の一人が津波で家を失ったそうで、そのことだけはどうしようか思案中らしい。「社員なら見舞金の規定があるんだけど、バイトは何もなくてね。なんとかして御見舞を出してあげようと思っている。そのためにも本を売らなきゃ」。仲間を思い、そのために前を向く姿がSさんらしい。
 311日以降、私は一冊も本を買っていない。新しい本を買って読む余裕も時間もなかったし、はじめのうちは「財布の中のお金はすべて食べ物に変え、妻に食べさせよう。とにかく開いているお店を探し、良い食材を手に入れよう」とだけ考えていた。しかし、それも落ち着き、市内の書店の再開のニュースが聞こえてきたり、逆に県内の書店の厳しい実情が聞こえてきたりすると、「地震後最初の本を、どこで買おうか」という妙な命題が頭の中で膨らんできた。真っ先に浮かんだのがブックスミヤギだった。小規模店ながら男手が少ないし、駅ビル立地で雑誌は売れるものの、その雑誌売上が三週間もゼロになるのはかなり深刻なはずだ。少しでも応援になれば嬉しいし、何より、Sさんがいる。他の市内の書店さんにも本当にお世話になっており、仕事でも個人的にも、可愛がってもらったり仲良くさせていただいている書店員さんがたくさんいる。そのことに優先順位や順番など付けられるわけがないのだが、今回はブックスミヤギで買うことに決めていた。
 「本を買いたい気持ち、三週間我慢してたんですよ。ちょっと見せて下さいね」と言って店内を歩きはじめると、「ホントに新刊が無いんだ。ごめんな。古いのばっかりなんだ」と笑いながら言われた。書店にとって新刊書が並んでいないということは、こちらの想像以上に気が引けることらしい。以前ある書店員さんが、「忙しくて何日も手を入れられていない棚をお客様に見られるのは、何日も同じ服を着たまま外出する感覚に近い」と言っていた。なるほど、わかるような気がする。

 ここ三週間、東北人の読書量はかつてないほど落ちているのではないかと思う。「読書どころではない」というのは当たり前だが、この知的損失は計り知れない。かくいう私も、ここ三週間の読書量はほとんどゼロである。
 大学時代の恩師が、「君たちは、ものを知らない。そんな君たちが厳しい社会に出て、恐れ多くも頭を使う仕事でお金をいただこうというなら、ものを知ろうとすることを止めてはいけない。呼吸をするように、本を読みなさい。朝起きて顔を洗うように、本を読みなさい。君たちはそうして本を読まなくてはいけないのです。それから、『趣味は読書です』なんて、口が裂けても言うなよ。呼吸することを趣味だと言うか? 朝起きて顔を洗うことを趣味だと言うか? 言わないだろう。君たちにとって、読書は趣味になり得ない。読書は、生きるための糧だ」と言っていた。その教えに背いたこの三週間を、どれだけかけて取り戻せばよいのだろうか。多くの東北人に、再び本を読む時が一刻も早く訪れますように。

 本を買った帰り、河北新報社の前で同社の編集委員の知人とばったり会い、20分ほど立ち話をした。その知人は地震後、「余震の中で新聞を作る」と題した読み応えのあるブログをこれまで9回更新しており、まずはその感想を伝えた。現場の記者は11日以降ほとんど休んでおらず、曜日の感覚も年度の感覚も吹き飛んでいるらしい。「311日という日がまだ終わらず、ずっと続いているような感覚すらある」という。これは優れた新聞人ならではの感覚かもしれない。ご本人は出身が福島県相馬市で、東京電力原子力発電所事故の風評被害が本当にひどいとも言っていた。避難についても、こんな状況下で住民に「自己判断」「自己責任」を求めるなんて、許されるわけがないと。
 「河北新報」は、宮城の地元紙として、被災地の避難所への無料配布などもしているのだろうか。それは定かではないが、避難されている方々にとって、毎朝読む新聞は支えになると思う。紙面から知る日々の新しいことは、「昨日とは違う今日」を感じることになる。それが「今の状況は滞ってはいない、前に進んでいるんだ」と、身のまわりの変化(それは「改善」であってほしいのだが)を信じる根拠になるだろう。震災の報道については様々な意見が見られるが、読者のそんな心理にも気づいていてくれればと思う。
 
 人と会い、話をすれば、今回の災害のまた新たな面を知る。「被災地の非被災者」である自分は、この先しばらくはそうやって災害の実像を知っていくのだろうと思う。それは、写真や映像から知ることよりも、よりリアルに心に残っていくような気がする。そしてまた、それらの多くは「この先の問題」として大きくのしかかってくる。
 ある大学出版の先輩のツイートで得た情報だが、宮城県大崎市岩出山の「有備館」の母屋が倒壊したそうだ。旧仙台藩の学問所で、現存する日本最古の学問所建築である有備館。建物の趣はもちろん、庭園の美しさは実に見事である。春の花に夏の青葉、秋の紅葉に冬の雪。その季節の色に囲まれた静謐な佇まいが、多くの人の心を掴んでいる。私も何度も足を運んだ。
 勤務している大学出版の人気シリーズ「人文社会科学講演シリーズ」は、東北大学大学院文学研究科が行なう市民講座を再録したもので、その講座は会場にちなんで「有備館講座」の別名がある。もちろん、上記した有備館のことだ。地元にある日本最古の学問所で、地元大学の研究者が市民向けの講座をするという趣向は、ロマンあふれる素晴らしいものだと常々思っていた。有備館の倒壊が、この講座の今後にどのような影響を与えるのか。これもまた、地震が残した「この先の問題」である。


 仙台では、「これからですね」という挨拶を、今週くらいから交わせるようになってきた。無事の確認と喜び、そして身のまわりの支えと立て直しのあとは、決して楽観できない厳しい今後に向けて、互いに鼓舞し合う。仙台人がいま経験しているこのプロセスは、仙台をまた少し「災害に強い街」にするように思う。


 生活面でも、少しずつ変化が出てきている。今週はじめに水が復旧し、大きな便利を取り戻した。それなのに「早くガスが来れば」「並ばずにガソリンを入れられるようになれば」「通行止めが解除されれば」と、すぐにまた次の便利を求める自分がいる。二週間前の自分に、怒鳴りつけてほしいくらいだ。まだまだ粘り強く、しぶとくやっていこう。
 被災地の非被災者としてようやくここまで来たのだから、残りの「便利を失った生活」は「練習」と思うことにした。いずれまた、全ての便利を失う時が来るかもしれない。大災害はいつでもやってくるし、実際に大きな余震は毎日のようにある。記憶が鮮明な今のうちに、「便利を失った生活」の練習を続けておこう。この日々は、またとない「練習」の日々にできる。本当はまだまだ本番が続いているのだが、「本番は最高の練習」とは水泳から学んだ言葉である。また「練習でできないことが本番でできるわけがない」ということも、「足元に積み重ねなければ、高いところには行けない」ということも、同じく水泳を通して身をもって理解しているつもりだ。そして「練習ハ不可能ヲ可能ニス」という言葉も。これも前に書いた恩師から教わった、小泉信三氏の言葉である。そうだ、今こそ小泉信三著の『平生の心がけ』(講談社学術文庫)を読み直そう。今こそ「平生」を考える絶好の機会なのだ。



 今日「ブックスミヤギ」で購入した本は以下の通り。

①『すべてはどのように終わるのか あなたの死から宇宙の最後まで』
  (クリス・インピー著/小野木明恵訳/早川書房)
②『哲学する赤ちゃん』
  (アリソン・ゴブニック著/青木玲訳/亜紀書房)
③『職業としての科学』
  (佐藤文隆/岩波新書)
④『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』
  (竹田恒泰/PHP新書)
⑤『「患者様」が医療を壊す』
  (岩田健太郎/新潮選書)
⑥『凛とした生き方』
  (金美齢/PHP文庫)
⑦『袖のボタン』
  (丸谷才一/朝日文庫)
⑧『三浦太郎のあかちゃんえほん(全3巻)』
  (三浦太郎/こぐま社)

 ①は前から気になっていた一冊。3.11の後の最初の一冊というのは皮肉になってしまうが。②は目の前に最高のサンプルがいるので。③は職業柄の一冊。⑦は「丸谷調」で綴られる活字に目を通すだけで、きっと心が豊かになれるはず。⑧は息子への最初の本。震災後、営業再開した「ブックスミヤギ」で買ったということも、いずれ教えてやりたい。

 最後になったが、河北新報編集委員の知人による「余震の中で新聞を作る」が読めるブログ「café vita」はこちら→http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/

2011年3月28日月曜日

20110328

20110328

 前回このブログを書いてから、約一週間が経った。この間に、予想をはるかに超えるカウント数を刻むことになり驚いている。また、読んでいただいた友人・知人より、多くの感想やコメント、twitterRTなどをいただくことで、あらためて自らの文章を多方面から読み直すことができた。これは即ち自らの震災後十日間の生活をふり返ることにもなり、図らずも今の自分の立ち位置を再確認することにもなった。このきっかけを与えてくれた本ブログ読者の方々に、心より御礼申し上げる。

 前回のものに書いたとおり、このブログはすぐに消去するつもりでいた。もともとは震災後の身のまわりのことを備忘録のつもりで書き残し、一つは紙にプリントして封筒に入れ、もう一つはUSBメモリかCDに記録しておき、震災後五十年の日に息子に読むようにいつか言いつけておこうと考えていたものだ。五十年後、私は生きている気がしない。でも、現在生後二ヶ月の息子なら、おそらく五十歳の誕生日を迎えた後、「あの東北関東大震災から半世紀」などという世間の声を聞きながら読むことができるだろう。その際、果たして「紙」が五十年間を生きることができるか(散逸や遺失を乗り越えて、五十年後も紙に書かれたものとして読めるかどうか)、それともデータが残るか(現在我が家で出来得るデータ保存方法が、五十年後に再現可能かどうか)についても関心を持っている。たぶん、確かめようがないとは思うが。
 しかし、ある友人から「その文章を読んでみたい」と言ってもらい、また別な友人からは、備忘録を書くのとは別のモチベーションを刺激される言葉をもらった。ならば、と思い、ひととおり書き終えた後、ブログを作ってアップしたという次第である。もちろん、読んでくれる他者がいることを意識して書いたものなので、息子が読むためにと考えていたものとは大幅に異なる。それでもアップした意味があったなと思えるのは、まず上に書いたとおりたくさんの感想やコメントをいただいたことと、そしてこの文章が五十年後にもネット上に残っているかどうか、紙・電子データに続く三つ目の記録手段になり得るかもしれないと考えたからだ。前言撤回となるが、とりあえずこのブログは残してみようと思う。

 今日、地震以来はじめて職場のスタッフ4人が勢揃いした。久々に出勤した一人は、津波で壊滅的な打撃を受けた宮城県の沿岸部の町に住んでいる。家は高台にあり、ご家族もみな無事だった。本当に良かった。当日本人は、地震発生後すぐにクルマで帰路についたが大渋滞に巻き込まれ、やむを得ず途中で帰宅を諦めてその晩は車中泊したそうだ。途中、建設会社がビルの前に簡易的に避難テントを設営し、そこで発電機を回して灯りと暖房と携帯電話の充電を提供していた。そこで携帯電話の充電ができたことで、当日中に家族との連絡が取れたという。こういうエピソードは、きっと数えきれないくらいあり、それらの多くが他の人に知られることのないままに消えていくのだろう。
 私はあの日、仕事帰りにクラブ(水泳)に行って練習をするつもりだった。そのため、昼間に大学生協で菓子パンとジュースを買い、夕方にそれを食べてからクラブに行こうと考えていた。地震が発生した直後、上記の職員がクルマで帰ると聞き、何かあった時のためにとその菓子パンとジュースを差し出したのだが、「大丈夫だと思う」と言って遠慮されてしまった。その後、車中泊や徒歩での帰宅の様子を知り、無理にでもパンとジュースを押し付けていれば、少しはお腹の足しになったはずなのにと胃が痛くなるくらいに後悔した。また、優しい職員なので、他の人にも菓子パンを分け、何人かの人のパワーに役立ててもらえたのではないかとも考えた。今朝もその話になったが、実際は「食べることなど忘れるくらい、とにかく出会う人と情報を交換して、安全に家に帰る手段を得ることに必死だった」ということだ。
 少し話がずれるが、普段持ち歩くカバンの中に、何かしら口に入れられるものを持っておくことは大切かもしれない。「カロリーメイト」のようなものや、飴やチョコレートでもいい。クルマであれば、ペットボトルの水を積んでおいても良いだろう(私は徒歩通勤のリュックの中に必ず水を入れている。クルマにも500ミリリットルの水とお茶、砂糖入りの缶コーヒーを入れておいた)。
 その職員が言うには、今日久々に仙台に来てみて、店は開いているし人もたくさんいて、住んでいる町とは別世界らしい。たしかに、仙台は二週間前と比べて賑わいを取り戻しつつある。

 私は相変わらず徒歩通勤をしているが、地震前と比べて一番の違いは、通勤ラッシュの時間帯なのに走っているクルマが驚くほど少ないことだ。まるで休日の早朝のようである。理由は二つ考えられる。一つは、まだ解消されてないガソリン不足。この土日に、地震後はじめての風呂に入りに妹宅にクルマで行ったのだが、片側二車線の幹線道路がところどころ無理矢理三車線になっている。一番左の車線はガソリンスタンドに並ぶクルマの列である。開いているスタンドごとに現れるその列の長さは、呆然とするほどである。どこも「整理券を持っているお客様が対象」「一台15リットルのみ」「一人2000円分を200台限定」などと制限を設けているが、並んでいるすべてのクルマにいき渡るとは到底思えないほどだった。週明けからの仕事で使う人も多いのだろう。ガソリンはまだまだ自由になりそうにない。もっとも、仙台で自由になる前に、他の本当に必要なところで自由に使えるようになってほしい気持ちが強い。
 クルマが少ないもう一つの理由は、これまで通勤車両の主線となっていた道路が「土砂崩れ」で不通となっているためである。私が住む郊外の住宅街からは、中心部と行き来するための道が大きく分けて三本あるが、そのうち二本が不通となっているのだ。そのため、徒歩通勤の途中はクルマをほとんど見かけず、よって排気ガスを被ることもない。
 「土砂崩れ」とは、広瀬川沿いの長い坂道・鹿落坂(ししおちざか)の途中にある老舗旅館「鹿落旅館」の半壊のことを指している。今回の地震による仙台市内での建物被害は少なく、その珍しい例として語られることも多いのだが、この半壊は、実際は「土砂崩れ」とも「地震による倒壊」とも言い難い事情がある。

 私がこの「土砂崩れ」を知ったのは、地震当日の帰宅途中だった。長くなるが、当日のことも少し書いておこう。
 前述のとおり、仕事の後にクラブへ行くつもりだったので、職場にはクルマで出ていた。地震後、停電で信号が消えてしまい渋滞が起きていることはわかっていたが、翌日以降もクルマを使う必要は出てくるだろうと考えたので、なんとかクルマで帰ろうとした。しかし、大学の敷地を出てすぐに渋滞で動けなくなる。普段なら1分ほどで達する丁字路まで、その時は15分ほどかかったと記憶している。いつもどおりの道を帰ろうとウィンカーを上げると「土砂崩れ」と手書きのボードとフェンスが出ている。「そこまで大きな地震だったのか」とあらためて思い、逆方向にハンドルを切って進んだ。対向車線のクルマの列を見ると、また大学構内に戻ってクルマを置くのも相当の時間がかかりそうだった。そこで、すぐ脇にある瑞鳳殿(伊達政宗公の霊屋)への坂道を上り、その駐車場にクルマを置き、あとは歩いて帰ろうと考えた。駐車場には空きスペースがあり、そこに駐車して必要なものをリュックに詰め、不要なものはクラブ用のカバンに入れ替え、カバンはクルマに残して車外に出た。この時、瑞鳳殿周辺は視界を塞ぐくらいの大雪が降っていた。スピリチュアルなことは苦手なのだが、大地震後の大雪に見舞われたこのとき、ふと「『天地が怒っている』とか『神の逆鱗に触れた』という表現は、この状況なら許されるかもな」と思ったことを覚えている。
 クルマを停めたことを一言ことわらなくてはと、まずは瑞鳳殿の受付に向かった。受付は、急な坂の上の、さらに急な長い石段をのぼった先にある。両手を額にあてて降る雪を遮りながらのぼっていくと、急に視界に黒くて丸いものが入った。視界をせまくしていたので目の前ではじめて気がついたのだが、おばあさんがうずくまっていて、目をつぶっている。「どうしたんですか? 大丈夫ですか?」と声をかけると、「急に歩いたから、めまいがして」と、細い声で返す。おそらく、交通がマヒして徒歩で帰らざるをえなくなり、長い石段を上ってきたのだろう。とりあえずおばあさんを背負ってのぼることにした。今は丈夫なスニーカーに動きやすい厚手のズボン、軽いダウンジャケット姿で徒歩通勤しているが、その日は革靴にスーツと薄いコートだ。まさか雪の積もった石段を、おばあさんを背負ってのぼることになるとは…。息を切らしながら受付まで行き、出てきた女性の肩も借りながらおばあさんをベンチに座らせた。「少し休めば大丈夫」という声が聞き取れ、少し安心した。瑞鳳殿の職員の人たちも情報がなく困っていたようで、「街なかの信号は点いてますか?」「クルマで移動はできそうですか?」などと矢継ぎ早に問われる。とりあえず自分が見てきた状況を話し、駐車場にクルマを停めた旨を話すと、「こういう時ですから、落ち着くまで停めておいていただいて結構ですよ」と言ってくれた。礼を言い、名刺を渡して家に向かって歩き始めた。
 住宅街を通る道は、細くて急な坂が多い。前にも後ろにも徒歩での帰宅者がいて、余震が起こるたびに「気をつけて!」
「頭を守って!」と声がかかる。雪が静かに降る中、目と耳と足元で余震を警戒しながら、道の真ん中を一列になっておそるおそる歩く。真上から見ることができたなら、白くなった道路の真ん中を人の列だけが動く、奇妙な映像になったことだろう。その途中で、前からか後ろからか、「鹿落旅館が崩れたって言うんだから、かなりの揺れだったんだよ」という声が聞こえてきた。「あぁ、あの『土砂崩れ』とは、鹿落旅館のことだったのか」と、少し前と記憶がつながった。

 「鹿落坂」と呼ばれる坂の上にある鹿落旅館は、広瀬川を眼下に見る老舗の旅館である。瑞鳳殿を中心とした「経ヶ峯」の一角にあり、これまた老舗の懐石料亭「東洋館」や、小さな「鹿落観音堂」と隣接している。“鹿落”の由来は、「鹿が駆け下りて広瀬川に水を飲みにくる」とも、「鹿ですら落ちてしまうほどの断崖」とも聞いたことがある。鹿落旅館は、かつて大相撲の仙台準場所があったころは、上位ではない力士衆の宿泊所になっていた。夏の準場所の時季になると、浴衣姿の力士たちが手ぬぐいで汗を拭きながら鹿落坂を上り下りしていた姿を今でも覚えている。そんな鹿落旅館が崩れたと聞いて、思わず立ち止まってしまった。それゆえ、雪まみれで帰宅し、迎えてくれた家族に伝えた第一報は、職場の諸々のことや渋滞や徒歩帰宅のことではなく、「鹿落旅館が倒壊したらしい」だった。

 鹿落旅館に隣接している「鹿落観音堂」には、ご年配の尼僧さんがお一人でいる。この尼僧さんとは以前からお付き合いがあり、機会があれば立ち寄っていた。地震後の徒歩通勤のおかげで帰り道に寄れるようになり、通勤途中に買った野菜や果物を持ってお邪魔し、家族の無事の御礼や被災者の方々の御見舞いをご本尊様に上げていただいたりもした。その際、「ちょっと外へ廻ってご覧なさい」と言われ、崖側、つまり倒壊した鹿落旅館の裏側を上から見せてもらった。ここで思わぬ事情を知った。旅館の裏側に巨石、いや巨岩が二つ、突き刺さっている。そのあまりの迫力に、衝突時に舞い上がったであろう砂埃の臭いを錯覚で感じるほどだった。鹿落旅館は地震で倒壊したのではなく、地震によって崖の上から落ちてきた巨岩によって突き破られたのだ。その巨岩は、崖の上の「東洋館」の庭にあったものらしい。かつて東北帝国大学の教員たちが「サロン」を開き、今も仙台で学会が開かれると宴席の一つとなる“名所”の東洋館なら、あれほどの巨岩が庭にあってもおかしくない。

 以前のように鹿落坂をクルマで通れるようになれば本当に有り難いのだが、それにはまず安全の確保が必要となるだろう。そのためには、旅館の残り部分についても厳しい判断が下されるのかもしれない。うわさ話に聞くところだと、鹿落旅館のご主人は、旅館脇のクルマの中でずっと車中暮しをしていらっしゃるらしい。なんとも、言葉が出ない。

 今日も通勤途中の霊屋橋から鹿落坂を見たが、重機が入っている様子はなかった。仙台市内でも数少ない(と思われる)、主要道路の通行止め箇所である。いち早く処理がなされるような気がする反面、重機類は被害の大きい沿岸部で優先して使われるべきとも思うし、うわさ話ながら車中泊のご主人を思うと、どう解決されるべきなのかは見当がつかない。これも、今の仙台が抱える地震後の問題の一つである。「二方が立たず」という問題は世の中によくあるが、「三方が立たず」「四方が立たず」という問題も、いまの東北各地には多くあると思う。これが、大震災という未曾有の災害が人々に残す、たくさんの爪痕の特徴なのだろう。


 今日、我が家ではどうやら水が完全に復旧した(と思われる)。あれほどの大地震の後でも、二十日間足らずで水道から水が出るというのはすごいことだと思う。毎日作業にあたられた方々に深く感謝したい。ある先輩が「仙台は毎日が水曜日」とメッセージをくれたが、たしかに市内のどこかで毎日水が出て、嬉しい水の日=水曜日を迎えている。ただ、県内に目を拡げるとまだまだ断水地区が多く、依然として給水車が頼りという人も多いはずだ。
 水汲みは、いざやってみると想像以上に厄介な作業ではある。しかし、毎日の暮らしにどうしても必要なことだ。上下水道の整備のない干ばつ地域の子どもたちが、毎日の仕事として数キロ先まで水を汲みに行き来するという話をよく聞くが、たとえ厄介でもやらずには済まされないのが水汲みである。一刻も早く、断水地区に水が出て「水曜日」が迎えられるように、また電気やガスが復旧して、暖や温かい食事がとれる「火曜日」も迎えられるように、心から祈りたい。そして、文字どおり全国の市町村から来てくれた給水車(私はよく「札幌市」と「出水市」の給水車を見かけた。「出水」という地名のなんとふさわしいことか!)とそのスタッフの方々に、心から御礼を申し上げる。

 前回のブログで「地震は卒業する」と書いたが、また地震のことを書いてしまった。まぁ、そもそも前言撤回をしてから書いているものなので、ご勘弁願いたい。今回の更新の一番の趣旨は、前回の文章を読んでいただいた方々への御礼である。長く拙い文章を(今回を含めて二度も)読んでいただき、本当にありがとうございました。次の更新がいつになるかはわかりませんが、またお会いしましょう。




2011年3月22日火曜日

20110322

20110322

 東北地方太平洋沖地震から約十日が過ぎた。まずはこの地震・津波で尊い生命を落とされた方々を哀悼し、そのご家族・ご関係の方々に心からお悔やみを申し上げる。そして、各地の避難所で厳しい毎日を過ごしていらっしゃる方々の、一刻も早い環境改善やもとの生活への復帰を祈る。
断っておくが、お決まりの言葉を並べて座りの良い導入にしているつもりは全くない。今回の被害は、規模が大きく、しかも広範囲にわたっている。我が身には何も起こらず、しかも家族みな無事という幸運に恵まれたが、友人・知人に少しご縁を広げるだけで、厳しい状況に突き当たる。家を無くした(らしい)という親戚や直接の知り合いは、今日までに分かっただけで片手の指を超える。避難所にいる(と思われる)知り合いも多い。「知らない誰か」に対して使われやすい冒頭の言葉を、「知っているあなた」に届ける気持ちを抱いて記す。

 仙台市太白区在住の私は、今回の地震発生時、仙台市青葉区の職場にいた。職種は大学出版の編集者である。仙台に住む多くの人がそうであるように、地震には「油断はしないが慣れている」つもりでいたが、今回の揺れは独特だった。気取った喩えをするつもりはないのだが、グラスの中のワインを揺らす際の、そのワインの表面のような動きを足元がしたように記憶している。ある友人は、「建物全体から、聞いたことのない音がした」と言い、また別の知人は「たぶん気のせいだと思うが、長机が宙に浮いた瞬間があったように見えた」と言う。そのくらい、大きな地震だった。

現在、自宅で水・ガス無しの生活となっている。電気は地震後34日ほどで戻り、ずいぶん救われた。水の復旧は今月31日、ガスは当初「一ヶ月程度で」との発表があったが「不明」と訂正された。この二つはもう家には無いものだと考えることにした。「水は汲み行くもの。ガスは、よく知らんが、しばらく関係無いもの」くらいの感覚でいれば、さほど困ることではない。水は隣の学区の集会所や公園で汲めるし、職場にはすでに戻っている。ガスは、無くても命にかかわることはない(むしろ、ガスに身を包まれてしまったら命にかかわる)。ガスと言えば風呂に入れないことがネックだが、少量の水で湿らせたタオルを電子レンジにかけて蒸しタオルをつくり、それで体を拭き洗いしている。シャンプーは、歩いて30分ほどの美容院(水道復旧地区・オール電化)で500円でやってくれるとの情報を得て、一昨日行って来た。地震前は毎日洗っていたのに、「次にあそこに行くのは、また一週間後だな」などと考えてしまっている。タフになっているのか、感覚が麻痺しているのか、自分でもわからない。
今の生活は不便と言えば不便なのだが、実際は「便利を失った」にすぎない。便利を失うことが即ち不便ではなく、便利と不便のちょうど中間の位置に立っているように思っている。

家具の被害は小さく、割れた瀬戸物が23個程度である。ただ、本棚の本がほぼ全て飛び出した。実はこの大地震の数日前にあった地震(「前震」と言うのだろうか?)のあと、本棚の空間を埋めるべくかなりきっちりと差して並べたつもりだったが、その予防策は無駄だった。思うに、地震で家の中の物が落ちるというのは、「倒れ落ちる」というより「滑り落ちる」ということで、モノとモノとが接している面が「揺らされて滑り動く」ことで起きる。紙(本)と木(本棚)は、たしかによく滑る。逆に、食器の下に布を敷いていた戸棚などは、食器と布、布と戸棚の摩擦が効いたのか、グラス・カップなども倒れずにいた。
唯一大きなものでは、テレビが1メートルほどの高さから床に落ちた。このテレビは我が家で最も古いテレビ(もちろんアナログ)で、各部屋を転々として私の寝室に収まっていたものだ。まずリモコンが効かなくなり、次に画像がひどく荒れ、視聴できるチャンネルがどんどん減り、さらには音声すらノイズが入って聞き取れなくなるという老い方をしていたが、最後には自ら身を投げるという劇的な終わり方を選んだ。まるで「はやぶさ」のような奴である。このテレビを弔うために、この先一年間は喪に服し、新しいテレビを買うことはやめようと思っている。まだ彼の身を起こしてやるに至ってはいないが、もしかしたらまだ映るのではないかと、わずかな期待を抱いている。

地震後、生活は少々変わった。同居の母が妹の家(こちらも無事だが、小さい子どもが二人いる)の支援にまわり、自宅では私・妻・息子(二ヶ月)の三人生活が始まった。私にとって、当面の(いま現在もそうだが)の最大の使命は、妻の母乳を止めないことになった。妻の母乳は、まさに息子の生命線である。紙オムツは、これまた幸運なことに地震の翌日に近所のドラッグストアに並んで1パック(90枚入り)買えたし、おしり拭きも大量にストックがあった。それゆえ、息子についての心配は、食事=妻の母乳に関することだけだった。私だけの食生活なら飢えをしのぐ程度でもなんとかなるが、妻には、母乳のためにも本人のためにも、一定の量と栄養バランスの良い食事、そして十分な水分を摂ってもらわなくてはならない。ここ十日間ほどの一番の優先事項はそれであり、今後も物資不足が解消されるまでは継続しなくてはならない。

食料は家の中の備蓄を有効に活用し、運がよければ追加の食材を仕入れるということにした。水は、家にあった非常用の買い置きと、近所の知人から譲ってもらった分(その人の職場は断水しなった)と、妻の実家から義父が届けてくれたペットボトル数本からスタートし、その後は汲みに行った。食材も水も無駄なく活用するために、食事は石油ストーブの上で調理でき、一品で栄養バランスを保てるような料理(白石温麺入りの味噌汁、マカロニ入りの野菜スープなど)などが今も続いている。
職場には14日(月)から出たのだが、徒歩での通勤途中に小さな八百屋さんが開くことがあった。そこに並んで野菜や果物を仕入れ、職場で山分けし、仕事を終えてリュックに詰め込んだりぶら下げたりして帰宅する。ちなみに、その八百屋はおばあさん一人で仕切っている店なので、開店準備は並んだお客たち総出でやるのが恒例になった。「助け合いの精神」「一刻も早く食材がほしい」「雪が降る中、ただ立って待っているのは辛い」「体を動かして、寒さと空腹を紛らわそう」など、各々が様々な思惑を持っての行動だったと思うが、結果的には誰にとってもメリットになることだった。
ある朝、NHKのローカルニュースを観ていると、仙台市内でも安くて新鮮な野菜が買える有名な商店街での映像で、「キャベツ一玉500円」という値札が写った。私の感覚では、一玉250円でも「高いなぁ」と手が伸びない値付けなのだが、その倍とは。非常時の流通で何らかのやむを得ない理由が生じるのだろうが、我々仙台市民が足元を見られているようで、無性に悲しく悔しかった。よく言われる「便乗値上げ」にも、この十日間で私自身遭っているのかもしれない。でも、それを考え始めると気持ちが荒ぶし、「妻の口に入り、母乳になって息子の口に入った」と考えれば納得できないことはない。値上げ分の利益で食材を多めに仕入れてもらい、それを店に出してもらって多くの人の手にわたるなら、それでも良いと思うことにした。

野菜・果物はなんとか買い物で調達することで、ビタミン・ミネラル・食物繊維を得られる。米・小麦粉・冷凍パン・乾麺パスタ・その他乾麺(冷麦・白石温麺・蕎麦・うどん)の備蓄を上手く回せば、炭水化物の摂取もそれなりに維持できそうだ。あとはタンパク質だが、家に高野豆腐や味噌(汁)があったし、冷凍・燻製パックの魚介類も少ないながら備蓄があった。また、これまで二度ほど魚屋が開いているのに遭遇し、鮭の切り身・鯖の切り身・たらこ・筋子を入手することが出来た。これは職場の同僚や妹の家にも大いに喜ばれた。肉についてはほとんど諦めているし、仮に入手できても、充分に水洗いができるほどの水がないので、たいてい油を必要とする肉の調理と洗い物はかえって面倒になるとも言える。肉を家で食べるのは、かなり先になるだろう。

洗濯はコインランドリーに行っている。私と妻の衣服はなんとかなるものの、息子のベビー服は数が少ないし、毎日替えてやりたいし、早くも親不孝なことに時々汚す。職場が大学構内なので、周辺は学生街の名残りが若干ながらあり、コインランドリーもあった。職場の辺りはずいぶん早く水が出たので、混んで困るということもない。リュックとは別に大きなビニル袋をたすき掛けし、それに洗濯物を詰め込んで出勤する。昔話ではないが、「お父さんは、街へ洗濯に」である。コインランドリーの利用の仕方は客同士で申し送りされ「洗剤は自動的に出るらしい」「その量なら300円で充分」「乾燥機は30分回さないと意味がない」などの情報が共有された。店を出るときはお互いに「がんばりましょう」と挨拶を交わす。似た境遇は連帯感を産むのだ。

水は4日ほど前から隣の学区の集会所で汲めるようになった。リュックに空のペットボトル・水筒・麦茶用ボトルなどを押し込み、自転車で向かう。そこ以外に公園や小学校内にも水道があり、近所の住民の間では「私は水が汲めるところを3ヶ所知っている」「私は4ヶ所だ」「並ばず汲めるところを1ヵ所見つけた」などの情報が飛び交っている。まるで誰もが、山菜採りの名人のように「穴場(水場)」を頭に入れている状態だ。
水汲みの列に並んでいると、中には「温水プールでも経営しとんのか?」と言いたくなるくらい大量の水を多量のポリタンクに汲んでいく人もいるが、複数の容器に小分けに汲み、何度も列に並ぶ人が多い。この慣例がどのように生まれたのか不明だが、回転が良くなることで短い時間に多くの人に水がまわる。
水を汲む容器と言えば、現場で実に様々なものを見た。ポリタンクやペットボトルが主流で、特に取っ手付きの大型ボトル(たぶん焼酎の「大○郎」などだろう)は持ちやすく重宝しているようだった。衣装ケースにゴミ用のポリ袋を敷いて汲んでいる人もいたし、直接ポリ袋に汲む人も少なくなかった。一番印象に残っているのは、加湿器の容器である。普段は散布することが目的だが、逆転して汲み置くことを目的に利用されている。普段まわりにあるモノの、非常時の利用のされ方を見るだけでも興味深かった。
この集会所には、給水車も来た。なぜ水道が生きているところに給水車が来るのか。来るなら水が出ていない地区に来てほしいと思うのだが、いま行政の混乱を非難しても仕方ないし、この状況下では混乱するのが普通とも考えられる。昨日汲みに行ったときには、水道にも給水車にも列が出来ていなかった。給水車のスタッフが少々困ったような顔をしていたので、「こっちの蛇口から汲みますから、いいですよ」と言うと、「いやぁ、そうですか、助かります! もうほとんどカラっぽで、早く戻って汲み直さなきゃいけないんです。ありがとうございます!」と言われ、走り去る際も窓を開けて「ホントに助かりました! ありがとうございます!」と礼をされた。この十日間、給水車のスタッフに対して「助かりました」「ありがとうございます」と声をかけた仙台の水難民は数多くいるだろうが、給水車のスタッフから「助かりました」「ありがとうございます」と言われた仙台の水難民は、たぶん私くらいのものだろう。

生活人としての行動は以上のようなところだが、社会人としての行動も当然ながら少々の変化があった。14日(月)から通常どおり出勤し(通勤途中で仕入れた野菜を持ち込むなど、通常ではない異常はあったが)、職場の状況把握と今後の対処にあたった。サーバーのダウンによるメールの不調や、郵送物の遅れ・滞り、さらには製作中の商品(書籍)の工程の練り直し等、頭が痛くなる懸案は現在も山積しているが、まずは何より、元気に営業していることをアピールしなくてはならない。「あそこはまだ復旧できず、営業できる状態ではない」などと思われてしまったら、せっかくの注文も得られず死活問題となる。かかってくる電話にはいつも以上に元気に出て、相手からの心配の声を遮って吹っ飛ばすことこそ、職員として、また仙台で働く社会人としての役割と考えている。
お付き合いのある印刷会社さんとはほぼ連絡が取れ、無事が確認できている。ただ、今後の状況はかなり厳しい。印刷機がダメージを受けていればメンテナンスが必要だが、そのノウハウを持っている技術者は全国で引っ張りだこでいつ来てくれるかわからないらしい。仮にすぐに来てくれても、修理の度合いによってはさらに時間がかかるだろう。そして最大の問題は紙の確保だ。紙の倉庫は輸送に便利な港近くにあるものだが、その多くが津波の被害を受けている。印刷業界の間で、「紙の買占め」のような事態が起こる可能性もある。ある営業さんは、「在庫以外の紙の手配については、申し訳ありませんが全くの“白紙”なんです」と言う。うまいことを言っているようだが、笑えない。しかし、こんな冗談を笑ってあげることが、今の仙台には必要でもある。当分は出版・印刷業ともに苦戦が強いられるのだろう。
職場の状況については、こちらも驚くほど被害は少ない。書庫の本は少し崩れたが、商品にならないレベルではない。PC等の機器もすべて稼動している。職員も全4名すべて無事だ。先に書いた買い物やコインランドリーは、出勤前や昼休みを利用して大急ぎでやっているのだが、上司には多少の遅刻を黙認してもらっているだけでなく、「俺も野菜を買ってくるようにカミさんに言われているから、その八百屋を教えて」と、執務時間中に一緒に買出しに行ったりもした。お互い、風呂に入れない同士だが、「体がくさいということは、生きている証拠だ。大いに喜ぼう」と言ってくれる。シャンプーもずっとできなかったが、「フケが出るということは、ヅラじゃない証拠だ。ナイショでヅラをかぶっている人は、余震の恐怖だけでなくバレる恐怖とも戦っているのかもしれない」などと笑ってくれる。他の職員も、遠隔地で通勤がままならなかったり、年配の家族の病院通い等で遅刻・早退をせざるを得なかったりしているが、それらもすべて認められている。普段から「まずは職員の生活が第一!」と言ってくれているのだが、この非常時に本当にそう考えてくれている。よい上司に恵まれたと、心から感謝している。
仕事についてもう一つ。先週、書店さんから書籍の注文電話を受けたものの、商品搬入日の約束ができない(運送業者もまだ正常には動けていない)ことを伝えた。するとその書店さんは、「そちらさんたちで出している本は、一ヶ月そこら読むのが遅れても、意味がなくなるような内容じゃないでしょう。大学の先生方がきちっと書いたものなんだから。お客さんにはそう言って待ってもらうから、出せるようになったら出してよ」と言われた。これが嬉しかった。大学出版の価値を、この書店さんにあらためて教わったような気がした。この言葉に「たち」が付いていることに注目。これは私の職場だけでなく、他の大学出版の仲間にも向けられた言葉であると解釈している。仲間とともに、これからも大学出版の求められる役割を担っていきたい。

この十日間で見た仙台の姿、仙台人の姿は、実に清々しいものであった。先述した水汲みの並び方もそうだが、八百屋での行列も乱れたことがなかった。また、例えば「一人何個まで」と買う個数を決められた商品(トマトやジャガイモなど)でも、その個数マイナス12個をカゴに入れ、後に並ぶ人にも残るような買い方をしている人がほとんどだった。会計時のお釣り不足は、客が買い物を減らして調整するか、周りの客が両替やお手伝い(=代わりに支払い)をして解決していた。当然、お手伝いされた側は、買った商品の中からイモ1個、キュウリ1本をお返しに渡す。こういうことが自然にできるというのは、人の本質にかかわることなのかもしれない。整然と会計に並んでいるとき、後ろのほうから「テレビでやってたけど、東京ではトイレットペーパーの買い占め騒ぎが起きてるってね。いやぁ、どこもたいへんだねぇ」という会話が聞こえてきた。もはや、ブラックジョークである。
帰宅途中、道端の自動販売機の前で、おばあさんが背伸びをしていた。自販機にお金を入れたはいいが、買いたい商品のボタンが上のほうにあり、手が届かない様子だった。代わりに押してあげると、「助かったわー、お礼にご馳走するから、どれでも好きなの買って!」と、小銭を差し出された。電気が復旧して間もなくで、自販機の水やお茶類が貴重だった頃である。「いやいや、悪いですよ」と丁寧に断って去ったが、その後考えると、喜んでご馳走してもらうべきだったと後悔した。
一昨日は、美容院でのシャンプーの帰りに、長く急な階段を、両手に食材を持って休み休み登っている女性がいた。「階段の上まで、お手伝いしますよ」と言い、荷物の一つを両手で抱えて(かなり重かった)登った。階段の上で息を切らしながらお礼を言われ、コンビニのおにぎりを一個手渡された。今度はありがたく頂戴した。
もし30年後に同じような災害が起きたとしたら、年齢からすると私は助けられる側になるのだろう。その時、助けてくれた人に感謝の心を伝える手段は、言葉に添えて缶ジュース一本、おにぎり一個を手渡すことくらいしかできないのかもしれない。そう考えると、今の遠慮はかえって失礼になるし、感謝の心に背くことにもなりかねない。感謝の心は、気持ちよく受け取るべきだ。この十日間で、仙台の人たちから学んだことの一つである。

地震が起きた後、東京在住の大学時代の仲間から「そっちの生活は何かと不便だろうから、奥さんと子どもを連れて我が家に来ないか。部屋ならあるし、ゆっくりしてもらえると思う」というメールをもらった。本当に嬉しい申し出であったし、東京に行けばいまの不自由もだいぶ解消されるのかもしれないと思ったが、礼を言って断った。生まれ育ち、今もこれからも住むこの街を、そうそう簡単に離れるわけにはいかない。東京での大学生活・社会人生活を経て、帰郷して十数年になる。うぬぼれととられても構わないが、この街に細く短いながらも自分の根を張り、生きてきたつもりである。そしてその根は、この街に暮らす多くの仲間達の根と絡み合い、その力を借りて仙台という地を固める小さな小さな一助になっていると自負している(これは完全なうぬぼれだ)。その地が天災で揺さぶられ、危機にあるからといって、自ら根を抜くようなことは絶対にできない。私の根が抜けたところで、仲間達の根は仙台の地を強く固め続けてくれるだろうが、私の根と絡んだ仲間の根まで、少し抜いてしまうことになる。そんなことはできない。これは「郷土愛」や「地元志向」という言葉とは異なる感情だと思う。強いて言えば「誇り」だろうか。仙台に生きることを誇りに思う気持ちが、今の私にはある。それゆえ、東京電力原子力発電所事故によって住む街からの避難を余儀なくされた福島県の方たちの姿を見ると、胸が痛くなる。続ける言葉が見つからない。

この十日間で、一度だけ腹立たしく思った出来事があった。地震の翌日、給水車が小学校に来るというので、水筒やペットボトルをリュックに入れて行ってみた。広いグラウンドを三周するほど人が並び、とても自分のところまで回ってくるとは思えなかったが、様子を見てみようと少し並んだ。自分の二つ前に並んだ男性が、その前に並んでいる女性に、災害時の備えや物資の調達法(水は普段から買っておけ、店は開く前から並べ、程度のこと)を話しながら、タバコを吸い始めた。タバコは周りにいる人にとって迷惑になることが多いし、小学校の敷地内は禁煙のはずだ。さらに嫌な予感(屋外での喫煙を見ると、この嫌な予感は高い確率で当たる)もしたが、すぐに終わるだろうと何も言わないでいた。
やはり、予感は当たった。その男性は火の点いた吸い殻を足元に落とし、サンダルで踏み消し、そのままでいる。しかも、二度も。そもそもポイ捨ては言語道断の悪行だが、ましてや小学生が運動したり遊んだりする土のグランドである。よっぽど皮肉たっぷりに罵倒してやろうかと思った(「あなたにとってタバコは、他人の迷惑なんて顧みず、所構わずプカプカ煙を吐き出すほど大好きで、大切で、欠かせない、かけがえの無いものなんですよね? ならば火の点いた吸殻も大事にポケットにしまって持ち帰るか、いっそのこと食べてしまってはいかがですか?」などと)が、その内容はその男性にだけ聞こえればいいことだ。言葉に出せばどうしても周囲の人の耳にも入ってしまい、その場の空気を悪くする。水汲みが絶望的なその場で、さらに空気が悪くなるのは避けたい。ならば言葉ではなく、黙って蹴り潰して吸い殻と同じにしてやろうかと思ったが、それも周囲の人の目に入ってしまうし、何よりも暴力は良くない。そして、空気も悪くなる。
水も汲めないようだし、そういう男性の近くで貴重な人生の時間を過ごすのはやめようと列を出て帰宅したが、やはり戻って冷静に注意し、場合よっては自分で吸い殻を拾って家のゴミ箱に捨てようかと、何度か足を止めた。小さなことと言えばそうだが、「非日常の中にある、日常の悪」がいかに醜く、下劣で、許し難いことかを知った。

また別な話だが、ある知り合いの家に届け物をしたとき、缶ビールをもらった。その時気づいたが、地震後はアルコールを口にしていない。そんな気持ちの余裕はなかったし、普段から家に買い置きなどもない。気分転換と睡眠のためにアルコールを口にすることは悪いことではないと思うが、いつ大きな余震があるかわからないし、いつ妻や息子の体調が悪くなるかもわからない(そのために、自家用車は充分な量のガソリンを入れたまま使わないでいる)。いずれにしろ、飲むのはずっと後のことになるだろうと思いながら受け取った。「買い置きですか?」と訊くと、地震の影響を見に港のほうまで行ったら、ビール工場近くでその会社のトラックが横転していて、周囲に缶ビールが転がっていたらしい。それを拾って来て洗ったものなので、中身は大丈夫だという。
その知人の手前、そのまま受け取って帰ってきたが、帰宅してすぐに捨てた。口に入るものを捨てることは、現在の食糧事情や空腹感とは別な気持ちからも本当に申し訳なく残念なことだったが、とっておく気も飲む気もしなかった。もしかしたら「拾得物」扱いになるのかもしれないが、その出どころはある程度はっきりしており、状況は限りなく「盗難物」に近いような気がする。食料はたしかに豊富ではないが、そのようなものを口にすることはできない。たとえ便乗値上げされていようが、自分が働くことで得た収入で買ったものか、あるいはありがたい善意とともに分けてもらったもの(こちらも書ききれないほど多い)しか、口にはしない。地震が起きたからといって、この当たり前のことは変わるわけがないし、変わっていいわけもない。 
缶ビールはその場で受け取らないか、あるいは捨てずに後日返せば良かったのかも知れないが、わずかな会話の中でつい受け取ってしまったし、相手はまったくの善意からのことなので、後で返すにしても理由を訊かれたら厄介な説明になってしまう。口に入るものを捨てたことも重なって、この件については今も気持ちが晴れない。いっそ、早く忘れてしまおうと思っている。そして出来れば、地震後の最初のビールは、このビール会社のものにしたい。捨ててしまった分、いつもより余計に買ってたっぷりと飲む。

順序が遅くなったが、多くの心配の声や、無事を伝えた後の喜びの声に、心から感謝したい。大学時代の仲間から届いた「大丈夫か? 怖くてずっとメール出来なかった。大丈夫でいてください。」というメール。返信で無事を伝えると、「良かった。涙でた。」と返ってきた。こちらも涙が出た。たまにしか利用する機会がないが、お世話になっている個人タクシーのドライバーさんからは、「水やオムツ、足りているでしょうか? 必要なものがあったら言って下さい。ご自宅まで届けますから!」というメールをもらった。ガソリン不足でご自身の食い扶持も危うくなっているというのに、ありがたい申し出だった。私をはじめ、このドライバーさんの人柄に惹かれる贔屓客は多いはずなので、他にもたくさんの人に優しいメールを送っているのだと思う。また、ある友人からの「あなたがお子さんに伝えられる、実にたくさんのもののうちで最大のものは、きっと、その濁りのない生命力なのではないかと思います。」という勿体無い言葉には、これからの勇気をもらった。一つひとつのメール、電話、言葉に、深く御礼を申し上げる。また、こちらが落ち着くまでは連絡せず、ただ無事を祈ってくれているという心配りにも、全く同様の御礼を申し上げたい。本当にありがとうございます。たまらなく、嬉しく思っています。

地震の二日後の日曜日は、今年初めてのレース(水泳)に出場するために仲間と福島へ行く予定だった。当然レースには行かず(中止や延期の連絡は未だに無いが、さすがに開催してはいないだろう)、仲間とは数日後に連絡を取り合った。みな無事で本当に良かった。一人(教員)は職場が避難所になり、地震が起きてから家にはほとんど帰らず力仕事をしているという。また一人は行政インフラの仕事で、やはり毎日遅くまで職場にいるらしい。
来月にも大きなレースが予定されているが、会場となる屋内プールは県の総合運動施設の中にあり、隣接する一番大きな体育館は現在遺体安置所になっている。それでも足りず、陸上競技場の屋内施設も安置所になったと昨日知った。おそらく、この大会も中止になるだろう。
スポーツは、社会とともにある。ある人は「そこにスポーツがあるということは、そこに社会があるということだ」と言う。そうだとすると、スポーツがなくなりそうな今は、社会が壊れかけてしまっているのかもしれない。一刻も早く、スポーツを、社会を、取り戻したい。
命あることを感謝し、懸命に生きることを自覚するために、レースに出て泳ぎたい気持ちは強い。でも、諦めることも必要だ。仲間とは電話で、「次にレースに出るときは、お互いの無事を感謝し、リレーを組んで最高の泳ぎをしよう」と約束し合った。所属するクラブの練習再開時期は未定とのことだが、早くまた仲間と練習がしたい。

家の本棚から飛び出した本は、まだ整理できていない。余震の心配もあるし、何らかの落下防止策を考える必要もある。文庫専用の棚は、去年の今頃一日がかりで著者名五十音順に並べたのだが、それもまたやり直しだ。
当たり前のこととはいえ、どの本も全て見覚えと思い出があり、内容が頭に浮かぶことに驚く。ちょっと考えすぎかもしれないが、本棚から飛び出したどの本も「おい、一度きりしか俺を読んでないだろ。もう一回くらい読めよ。いいこと書いてあるぞ」と言っているような気がする。新刊書を読むことも大事なことだし楽しいことだ。でも、本棚にある本をもう一度読むことも、大事なことだし楽しいことのように思う。

昨日水を汲みに並んでいる時、後ろに並んだ元気のいいおばちゃんがこう言っていた。「福島の牛乳が危ないとかいって、どうせ他の福島産のものも東京では売れ残るんでしょ。だったら、東北で採れた農産物や海産物は、もう食べてくれなくていいわよ。東北で作ったものは、東北でみんなで分けて食べましょ。東京なんかにはあげない。その代わり、東京で作っているテレビ番組は一切観ないから。それでも、なーんにも困らないから」。極論ではあるが、賛成したいところもある。東北が産む農産物も海産物も、東北だけではとても消費しきれないだろうし、農家や漁師さんの収入も減ってしまうだろう。ただ、おばちゃんの言いたいことは、東北人の一人としてよくわかるような気がする。
これからは、よりいっそう「地産地消」に努めていこうと思っている。野菜や魚や肉はもちろん、お菓子についてもそうだ。地震後の仙台の街で、多くの店が閉店している中、老舗の銘菓店が店を開けていた。そこで買ったモナカを夜に1個食べることが、この十日間のなかで安らぎの時間になった。大手の菓子メーカーや他の都市の菓子会社のものが悪いわけではないが、地元の銘菓を出張の手土産にしか買わないのはもったいない。家で寛ぐときも、もっと地元の銘菓を味わおうと思う。
地元の魚についても、考えるところがある。仙台は、「魚が美味しい」「旬ごとに様々な種類の魚が味わえる」という評判を得ているが、それは宮城県内の沿岸部にある他の市町の港があってのことである。それらの市町の港は、今回の津波で大打撃を受けた。いつも美味しい魚を仙台に届けてくれていた漁師さんは、もういないかもしれない。
もっと、魚を食べよう。漁師さんたちが採ってきてくれる魚を、新鮮なうちに美味しく食べる環境が、仙台には整っている。港が街にしてくれたことを、街は港に返さなくてはならない。

今回の地震が、自分にとっても大きな出来事であることは間違いない。地震のあった夜、ラジオから絶えず聞こえてくる衝撃的な情報を耳にしながら(ほとんどが信じられなかったが、電気が戻ってからテレビをつけて、その映像に唖然とした)、ふと「これまで多くのものから様々なことを学び、スポーツを通して心身を鍛えてきたのは、こういう時に乗り切れる自分をつくるためだったのかな」と思った。その翌朝からこれまでの十日間、仙台の人々の姿を見て、他の人もみなこの状況をなんとか乗り切ろうと努めていることを感じた。
八百屋の店先で、コインランドリーで、そして市内在住の友人からのメールの文面にて、それぞれの人は何の脈絡やつながりもないはずなのに、なぜか共通して耳にし目にした「がんばっぺ、仙台」という言葉。数多の情報が飛び交うネットの世界でも見ていないし、おそらくtwitterでの「拡散」などもされていないと思うが、現実にこの言葉に私は何度か接している。「がんばろう」という言葉には、苦境から立ち上がる際の勢いのようなものを感じるが、「がんばっぺ」には、まだまだ苦境の最中にありながらも、いつかは必ず立ち上がってみせる、それまでは耐え続けてやるといった粘り強さを感じる。地震の後、尊敬する先輩から「大変だと思うが、たくましく粘り強く乗り切ってください」とのメッセージをもらった。「たくましく粘り強く乗り切る」とは、まさにこの「がんばっぺ、仙台」の精神ではないかと思っている。この精神さえあれば、仙台はこれからも災害に強い街でいられると思う。

質素な食事と、毎日の徒歩通勤、そして早寝早起きで、体はどんどん健康になっている。この体調を活かして仕事に専念しなければ、世間様に申し訳ない。この文章を書くことで、今回の地震からは卒業するつもりだ。もちろん、余震への警戒は続くし、水なしガスなしの生活はまだ続くが、これを自分なりの区切りにしよう。

最後までこの駄文・長文を読んでいただき、心から感謝する。その御礼というわけではないが、私の身勝手な独白でしかない文章をここまで読んでいただいた以上、少しはためになることも提供したい。もういい加減に読み疲れていらっしゃるだろうが、この十日間で役立ったと思われるモノや事を下に記す。ここまで読んでいただいただけで本当に感謝しているが、時間があれば下記にも目を通していただきたい。なお、この文章は一週間くらいですべて削除しようと思っているので、気になることがあったらお手数だがメモしていただくと良いと思う。
先に断っておくが、これから記すことは災害時の全てのケースに当てはまることであるわけがなく、たくさんの瑕疵と矛盾を含んでいる。小さな例を挙げれば、ある電化製品をお勧めしても「電池がなければダメでしょ」と、簡単に指摘を許してしまうものばかりだ。ただ、災害時の全てのケースに当てはまるような対策など、そうそうないと思う。もし、そんな対策を数多く知っているなら、私は大好きな今の仕事を辞め、その道のプロとなって災害に遭った人を少しでも手助けしたいと思う。


<照明器具>
一般には懐中電灯だろうが、一方向しか照らせず、持って歩くにはどうしても片手を塞ぐことになる。同じ電池型の照明ならば、Lumatec の「 Lumatec Everest Reading Light」をお勧めしたい。これはいわゆる「ブックライト」で、暗いところで本を読むための照明器具である。白色LED2燈タイプで、一般的な懐中電灯よりもはるかに明るく鮮やかだ。形状もコンパクトで軽いので、胸ポケットや襟元に差してクリップで止め、両手を空けて歩くことも出来る。スライド式で角度がつけられ、寝かせてもいいし自立もできる。部屋全体を明るくするなら、一方向しか照らせない懐中電灯よりも断然便利である。また、一般的な懐中電灯の電池が、他の電化製品との互換性が良いとは言えない単一や単二であるのに対し、これは単四を使用しておりストックもしやすい。今回の地震で、初期(停電期間中)に最も役に立った一品である。
販売サイトではないが、このライトを紹介しているページがあったので参考までに示しておく。

<暖房(調理)器具>
これは季節にも大きく左右されるが、我が家では石油ストーブが八面六臂の活躍をしてくれた。ガスが止まって備え付けのガスコンロが使用できず、停電により石油ファンヒーターや電子レンジ、オーブントースターも使えない中、暖房としてだけでなく、上に乗せれば調理までできる石油ストーブには本当にお世話になった。電気が戻った現在も主力のままで、汁物の鍋、お湯を沸かすための鉄瓶、魚や野菜のホイル焼きなど、様々なものを乗せて調理している。ただ、いまだに大きめの余震が頻発しているので、グラッと揺れたらすぐに乗せているものを取り、消火ボタンを押す準備を繰り返さなくてはならない。それでも、ファンヒーターやエアコン、電気ストーブにはできない「調理」という役割を果たしてくれるのは大きな魅力だ。夏場の置き場所や、シーズン中でも灯油のポリタンクの置き場所に苦労するということもあるだろうが、アンプラグドで暖房と調理の二つをこなすパフォーマンスはやはり捨てがたい。

<調理器具>
まずはホームベーカリーだ。だいぶ一般的になってきているので、既にお持ちの方も多いだろう。材料やレシピは多種多様であるが、我が家では「小麦粉・砂糖・塩・水・菜種油・ドライイースト」という、タマゴも牛乳もバターも使わないシンプルな材料で焼いている。これが正解だった。特記事項は使用する水の量で、たった170ミリリットルほど必要なだけである。お米を炊くのに必要とする量(米研ぎも含む)と比べると、圧倒的に少なくて済む。材料もすべて日持ちするもので、菜種油は一般のサラダ油でももちろんOK。電気が来て、材料さえあれば、熱々のパンが食べられる。一斤を四等分して妻と二個ずつ分け、私は朝と昼の弁当に、妻も朝と昼に食べた。二食で半分は量的にやや少ないが、そこは我慢しなくてはならない。それなりに腹持ちもするし、焼き上がりの香りは心も満たすと言っていい。余談だが、妻の趣味であるお菓子作りが活き、カメリア粉・全粒粉・オートミールもパン焼きに役立った。何であれ食材が家にあるということは、非常時の救いになる。
次に、電気ポットを挙げたい。我が家にあるのは1リットルの小型ポットだが、とにかく素早くお湯が沸く。お湯を沸かすためだけに卓上コンロのカセットボンベを使うのはもったいないと思っていたので、このポットは毎日大いに活躍している。これもベーカリーと同様、電気が来ていれば使える。シャンプーの見通しが立たない間は、これでお湯を沸かして水を混ぜてぬるま湯にし、自転車用の飲料ボトルに入れてちびちびと頭にかけながら洗おうとも考えていた。床に置いて使えば安定感もあり、余震に警戒しながら石油ストーブや卓上コンロに鉄瓶・やかんをかけるよりも安全で安心だ。
最後はルクエのスチームケース。これも少しずつ一般的になっているようだが、まだ「お馴染み」というところまでは至ってないだろう。しかし、なかなかの実力者である。
乾麺のパスタは備蓄食材に最適だが、いざ茹でるとなるとそれなりの量の水が必要となるし、熱源の燃料もかなり消費する。しかし、このスチームケースがあれば、少量の水で電子レンジを使って調理できる。レシピについては関連本が多く出ているし、ネットにもあふれるほどアップされている。また、温野菜も簡単に作れるし、材料があれば蒸しパンなどの主食系炭水化物にも可能性を広げられる。使用後の水洗いがネックと言えばネックだが、鍋に水を入れて卓上コンロで調理するよりもずっと効率的で節約できると思う。
余談だが、ホームベーカリー・電気ポット・スチームケースの三つは、全て結婚祝いに妻の友人からいただいたものだ。「お祝いは、相手が自ら買わないようなもので、趣味や好みに左右されず、実生活で役立つもの」などとよく言うが、まさに自らは買わず、趣味や好みとは関係ないものの、大いに役立った三つだ。今後誰かにプレゼントをするときには、この三つをまず検討しようと思っている。

<衛生用具>
  水が止まったままなので、家では今も流水で手を洗うことができない。これは意外に大きなストレスでもあり、もちろん衛生上も良くない。薬用のウェットティッシュがあれば一番だが、我が家には無かった。その代用をしたのが、息子のおしり拭きである。これは、ドラッグストアの商品券で大量に買い込んでおいたものだった。息子の誕生前に商品券の使用期限が迫り、先走ってオムツを買うのはサイズや機能面で失敗のリスクが高いと判断し、とりあえずおしり拭きは必要になるだろうと私が買ったものだ。良い買い物をしたと意気揚々と帰宅して妻に見せたが、「おしり拭きは、お湯で湿らせたティッシュでも十分みたいよ」と言われ、やはり先走って失敗したかと落ち込んでいた。しかし、期せずして大活躍してくれた。
成分は非アルコール性で無臭。パッケージには「化粧水」との表示がある。赤ん坊のお尻はもちろん、目や口の周りを拭いてもOKというものなので、まず安心である。大人の手ももちろん拭けるし、朝の洗顔代わりにもずっと使っている。最近、肌が妙にプルプルでツルツルになったのは、この「化粧水」の効果かもしれないと思っている。しっかりと消毒・殺菌したいときはジェル状の消毒液(インフルエンザ対策等で、建物の入口でよく見かけるようになったもの。薬局で家庭用の小サイズも入手できる)を含ませ、手指を洗った。先日、より高機能の薬用ローションを同僚からもらい、それをデイリー・コットンに染み込ませて顔や手を拭くということもできるようになったが、このおしり拭きは惜しまず使えて実に重宝した。

<携帯電話充電器具>
停電中、携帯電話の充電が出来ずに苦しんだ(あるいは、今も苦しんでいる)というケースは、今回の地震ではとても多いだろう。阪神大震災の頃と比べると、携帯電話の普及は比較にならないほどと思われる。私もその一人で、地震の翌日にわずかな残量を使って「無事です。」とツイートしたのがほほ最後となった。その翌日、義父からの救援物資の中に、手動式の携帯電話充電器があった。これは嬉しいと小躍りして受け取ったが、義父が言うには「気休め程度だよ」。実際に使ってみると、見事に気休め程度だった。しばらく回して電源を付けてみても、起動ですべて使い切ってしまうようで、ほとんど機能しない。ただ椅子に座り、ワカサギ釣りのリールのようなハンドルを「ウィーン、ウィーン」と廻していると、なんだか世間様に申し訳ない思いにかられてくる。山ほどある他のやるべきことに時間と労力をあてるべきだと、ウィーンはすぐにやめた。ちなみにそれは、義父が勤めている会社の取引先の何周年かの記念品だそうで、同僚のほぼ全員が持っているはずだと言う。おそらく、その同僚の何人もが今回はじめて使用しただろう。家族からの期待と尊敬の眼差しを浴びながらのウィーンが、まさかの「気休め」で終わるとは…。会社間の取引そのものにも影響が出ることは避けられないだろう。
もし使うなら、電池式の携帯電話充電器がお薦めだ。ウィーンよりも絶対に効率的だろうし、信頼性もある。これは私も近々に買おうと思っている。また、クルマのシガーソケットに差し込んで充電できるものも、多くの人が使っていたようだ。
「電源が切れると、まるで使い物にならない!」と、携帯電話についての苛立ちの声を多く耳にしたが、やはり便利なものであるし、携帯電話のお陰で多くの人がたくさんの「安心」を得たことも事実である。携帯電話が救ったという命も、たぶんあると思う。携帯電話は便利であることに違いない。ただ、便利ではあるが、脆弱なのだ。あらゆる機能を備えながら、そのパワーの源が充電のみというのは何とも心細い。一度の充電による耐久時間がもっと延び、ソーラーパワー等での簡易充電が可能となり、災害時の通信容量の改善(いわゆる「つながらない」という状態の改善)がなされれば、携帯電話の果たす役割もより大きく確実になるはずである。これはぜひ望みたいところだ。

<マンパワー>
この十日間をふり返ると、何よりもまず妻の存在が大きかった。これは謝辞のようなものではなく、妻がいたおかげで様々な作業の分担・軽減・同時進行ができたという実務的なことである。もし一人暮らしだったら、一人では手がまわらないことのあまりの多さに、疲労感と無力感をたっぷりと味わっていたことだろう。今回のような非常時に、協力できる人が近くにいることは実に大きい。家族と同居しているなら家族と、もし一人暮らしなら、いざという時に同居して協力し合えるくらいの友人・知人を持っておくと良いと思う。


つまるところ、モノよりも人である。「災害に強い街とは、災害に強い人が多く住む街である」との持論がある。仙台が災害に強い街かどうかは、災害が起きる前よりも、むしろ災害が起きた後のこれからの仙台人の言動にかかっている。自分もその一人であることを、常に心に刻んで。