20110328
前回このブログを書いてから、約一週間が経った。この間に、予想をはるかに超えるカウント数を刻むことになり驚いている。また、読んでいただいた友人・知人より、多くの感想やコメント、twitterのRTなどをいただくことで、あらためて自らの文章を多方面から読み直すことができた。これは即ち自らの震災後十日間の生活をふり返ることにもなり、図らずも今の自分の立ち位置を再確認することにもなった。このきっかけを与えてくれた本ブログ読者の方々に、心より御礼申し上げる。
前回のものに書いたとおり、このブログはすぐに消去するつもりでいた。もともとは震災後の身のまわりのことを備忘録のつもりで書き残し、一つは紙にプリントして封筒に入れ、もう一つはUSBメモリかCDに記録しておき、震災後五十年の日に息子に読むようにいつか言いつけておこうと考えていたものだ。五十年後、私は生きている気がしない。でも、現在生後二ヶ月の息子なら、おそらく五十歳の誕生日を迎えた後、「あの東北関東大震災から半世紀」などという世間の声を聞きながら読むことができるだろう。その際、果たして「紙」が五十年間を生きることができるか(散逸や遺失を乗り越えて、五十年後も紙に書かれたものとして読めるかどうか)、それともデータが残るか(現在我が家で出来得るデータ保存方法が、五十年後に再現可能かどうか)についても関心を持っている。たぶん、確かめようがないとは思うが。
しかし、ある友人から「その文章を読んでみたい」と言ってもらい、また別な友人からは、備忘録を書くのとは別のモチベーションを刺激される言葉をもらった。ならば、と思い、ひととおり書き終えた後、ブログを作ってアップしたという次第である。もちろん、読んでくれる他者がいることを意識して書いたものなので、息子が読むためにと考えていたものとは大幅に異なる。それでもアップした意味があったなと思えるのは、まず上に書いたとおりたくさんの感想やコメントをいただいたことと、そしてこの文章が五十年後にもネット上に残っているかどうか、紙・電子データに続く三つ目の記録手段になり得るかもしれないと考えたからだ。前言撤回となるが、とりあえずこのブログは残してみようと思う。
今日、地震以来はじめて職場のスタッフ4人が勢揃いした。久々に出勤した一人は、津波で壊滅的な打撃を受けた宮城県の沿岸部の町に住んでいる。家は高台にあり、ご家族もみな無事だった。本当に良かった。当日本人は、地震発生後すぐにクルマで帰路についたが大渋滞に巻き込まれ、やむを得ず途中で帰宅を諦めてその晩は車中泊したそうだ。途中、建設会社がビルの前に簡易的に避難テントを設営し、そこで発電機を回して灯りと暖房と携帯電話の充電を提供していた。そこで携帯電話の充電ができたことで、当日中に家族との連絡が取れたという。こういうエピソードは、きっと数えきれないくらいあり、それらの多くが他の人に知られることのないままに消えていくのだろう。
私はあの日、仕事帰りにクラブ(水泳)に行って練習をするつもりだった。そのため、昼間に大学生協で菓子パンとジュースを買い、夕方にそれを食べてからクラブに行こうと考えていた。地震が発生した直後、上記の職員がクルマで帰ると聞き、何かあった時のためにとその菓子パンとジュースを差し出したのだが、「大丈夫だと思う」と言って遠慮されてしまった。その後、車中泊や徒歩での帰宅の様子を知り、無理にでもパンとジュースを押し付けていれば、少しはお腹の足しになったはずなのにと胃が痛くなるくらいに後悔した。また、優しい職員なので、他の人にも菓子パンを分け、何人かの人のパワーに役立ててもらえたのではないかとも考えた。今朝もその話になったが、実際は「食べることなど忘れるくらい、とにかく出会う人と情報を交換して、安全に家に帰る手段を得ることに必死だった」ということだ。
少し話がずれるが、普段持ち歩くカバンの中に、何かしら口に入れられるものを持っておくことは大切かもしれない。「カロリーメイト」のようなものや、飴やチョコレートでもいい。クルマであれば、ペットボトルの水を積んでおいても良いだろう(私は徒歩通勤のリュックの中に必ず水を入れている。クルマにも500ミリリットルの水とお茶、砂糖入りの缶コーヒーを入れておいた)。
その職員が言うには、今日久々に仙台に来てみて、店は開いているし人もたくさんいて、住んでいる町とは別世界らしい。たしかに、仙台は二週間前と比べて賑わいを取り戻しつつある。
私は相変わらず徒歩通勤をしているが、地震前と比べて一番の違いは、通勤ラッシュの時間帯なのに走っているクルマが驚くほど少ないことだ。まるで休日の早朝のようである。理由は二つ考えられる。一つは、まだ解消されてないガソリン不足。この土日に、地震後はじめての風呂に入りに妹宅にクルマで行ったのだが、片側二車線の幹線道路がところどころ無理矢理三車線になっている。一番左の車線はガソリンスタンドに並ぶクルマの列である。開いているスタンドごとに現れるその列の長さは、呆然とするほどである。どこも「整理券を持っているお客様が対象」「一台15リットルのみ」「一人2000円分を200台限定」などと制限を設けているが、並んでいるすべてのクルマにいき渡るとは到底思えないほどだった。週明けからの仕事で使う人も多いのだろう。ガソリンはまだまだ自由になりそうにない。もっとも、仙台で自由になる前に、他の本当に必要なところで自由に使えるようになってほしい気持ちが強い。
クルマが少ないもう一つの理由は、これまで通勤車両の主線となっていた道路が「土砂崩れ」で不通となっているためである。私が住む郊外の住宅街からは、中心部と行き来するための道が大きく分けて三本あるが、そのうち二本が不通となっているのだ。そのため、徒歩通勤の途中はクルマをほとんど見かけず、よって排気ガスを被ることもない。
「土砂崩れ」とは、広瀬川沿いの長い坂道・鹿落坂(ししおちざか)の途中にある老舗旅館「鹿落旅館」の半壊のことを指している。今回の地震による仙台市内での建物被害は少なく、その珍しい例として語られることも多いのだが、この半壊は、実際は「土砂崩れ」とも「地震による倒壊」とも言い難い事情がある。
私がこの「土砂崩れ」を知ったのは、地震当日の帰宅途中だった。長くなるが、当日のことも少し書いておこう。
前述のとおり、仕事の後にクラブへ行くつもりだったので、職場にはクルマで出ていた。地震後、停電で信号が消えてしまい渋滞が起きていることはわかっていたが、翌日以降もクルマを使う必要は出てくるだろうと考えたので、なんとかクルマで帰ろうとした。しかし、大学の敷地を出てすぐに渋滞で動けなくなる。普段なら1分ほどで達する丁字路まで、その時は15分ほどかかったと記憶している。いつもどおりの道を帰ろうとウィンカーを上げると「土砂崩れ」と手書きのボードとフェンスが出ている。「そこまで大きな地震だったのか」とあらためて思い、逆方向にハンドルを切って進んだ。対向車線のクルマの列を見ると、また大学構内に戻ってクルマを置くのも相当の時間がかかりそうだった。そこで、すぐ脇にある瑞鳳殿(伊達政宗公の霊屋)への坂道を上り、その駐車場にクルマを置き、あとは歩いて帰ろうと考えた。駐車場には空きスペースがあり、そこに駐車して必要なものをリュックに詰め、不要なものはクラブ用のカバンに入れ替え、カバンはクルマに残して車外に出た。この時、瑞鳳殿周辺は視界を塞ぐくらいの大雪が降っていた。スピリチュアルなことは苦手なのだが、大地震後の大雪に見舞われたこのとき、ふと「『天地が怒っている』とか『神の逆鱗に触れた』という表現は、この状況なら許されるかもな」と思ったことを覚えている。
クルマを停めたことを一言ことわらなくてはと、まずは瑞鳳殿の受付に向かった。受付は、急な坂の上の、さらに急な長い石段をのぼった先にある。両手を額にあてて降る雪を遮りながらのぼっていくと、急に視界に黒くて丸いものが入った。視界をせまくしていたので目の前ではじめて気がついたのだが、おばあさんがうずくまっていて、目をつぶっている。「どうしたんですか? 大丈夫ですか?」と声をかけると、「急に歩いたから、めまいがして」と、細い声で返す。おそらく、交通がマヒして徒歩で帰らざるをえなくなり、長い石段を上ってきたのだろう。とりあえずおばあさんを背負ってのぼることにした。今は丈夫なスニーカーに動きやすい厚手のズボン、軽いダウンジャケット姿で徒歩通勤しているが、その日は革靴にスーツと薄いコートだ。まさか雪の積もった石段を、おばあさんを背負ってのぼることになるとは…。息を切らしながら受付まで行き、出てきた女性の肩も借りながらおばあさんをベンチに座らせた。「少し休めば大丈夫」という声が聞き取れ、少し安心した。瑞鳳殿の職員の人たちも情報がなく困っていたようで、「街なかの信号は点いてますか?」「クルマで移動はできそうですか?」などと矢継ぎ早に問われる。とりあえず自分が見てきた状況を話し、駐車場にクルマを停めた旨を話すと、「こういう時ですから、落ち着くまで停めておいていただいて結構ですよ」と言ってくれた。礼を言い、名刺を渡して家に向かって歩き始めた。
住宅街を通る道は、細くて急な坂が多い。前にも後ろにも徒歩での帰宅者がいて、余震が起こるたびに「気をつけて!」
「頭を守って!」と声がかかる。雪が静かに降る中、目と耳と足元で余震を警戒しながら、道の真ん中を一列になっておそるおそる歩く。真上から見ることができたなら、白くなった道路の真ん中を人の列だけが動く、奇妙な映像になったことだろう。その途中で、前からか後ろからか、「鹿落旅館が崩れたって言うんだから、かなりの揺れだったんだよ」という声が聞こえてきた。「あぁ、あの『土砂崩れ』とは、鹿落旅館のことだったのか」と、少し前と記憶がつながった。
「鹿落坂」と呼ばれる坂の上にある鹿落旅館は、広瀬川を眼下に見る老舗の旅館である。瑞鳳殿を中心とした「経ヶ峯」の一角にあり、これまた老舗の懐石料亭「東洋館」や、小さな「鹿落観音堂」と隣接している。“鹿落”の由来は、「鹿が駆け下りて広瀬川に水を飲みにくる」とも、「鹿ですら落ちてしまうほどの断崖」とも聞いたことがある。鹿落旅館は、かつて大相撲の仙台準場所があったころは、上位ではない力士衆の宿泊所になっていた。夏の準場所の時季になると、浴衣姿の力士たちが手ぬぐいで汗を拭きながら鹿落坂を上り下りしていた姿を今でも覚えている。そんな鹿落旅館が崩れたと聞いて、思わず立ち止まってしまった。それゆえ、雪まみれで帰宅し、迎えてくれた家族に伝えた第一報は、職場の諸々のことや渋滞や徒歩帰宅のことではなく、「鹿落旅館が倒壊したらしい」だった。
鹿落旅館に隣接している「鹿落観音堂」には、ご年配の尼僧さんがお一人でいる。この尼僧さんとは以前からお付き合いがあり、機会があれば立ち寄っていた。地震後の徒歩通勤のおかげで帰り道に寄れるようになり、通勤途中に買った野菜や果物を持ってお邪魔し、家族の無事の御礼や被災者の方々の御見舞いをご本尊様に上げていただいたりもした。その際、「ちょっと外へ廻ってご覧なさい」と言われ、崖側、つまり倒壊した鹿落旅館の裏側を上から見せてもらった。ここで思わぬ事情を知った。旅館の裏側に巨石、いや巨岩が二つ、突き刺さっている。そのあまりの迫力に、衝突時に舞い上がったであろう砂埃の臭いを錯覚で感じるほどだった。鹿落旅館は地震で倒壊したのではなく、地震によって崖の上から落ちてきた巨岩によって突き破られたのだ。その巨岩は、崖の上の「東洋館」の庭にあったものらしい。かつて東北帝国大学の教員たちが「サロン」を開き、今も仙台で学会が開かれると宴席の一つとなる“名所”の東洋館なら、あれほどの巨岩が庭にあってもおかしくない。
以前のように鹿落坂をクルマで通れるようになれば本当に有り難いのだが、それにはまず安全の確保が必要となるだろう。そのためには、旅館の残り部分についても厳しい判断が下されるのかもしれない。うわさ話に聞くところだと、鹿落旅館のご主人は、旅館脇のクルマの中でずっと車中暮しをしていらっしゃるらしい。なんとも、言葉が出ない。
今日も通勤途中の霊屋橋から鹿落坂を見たが、重機が入っている様子はなかった。仙台市内でも数少ない(と思われる)、主要道路の通行止め箇所である。いち早く処理がなされるような気がする反面、重機類は被害の大きい沿岸部で優先して使われるべきとも思うし、うわさ話ながら車中泊のご主人を思うと、どう解決されるべきなのかは見当がつかない。これも、今の仙台が抱える地震後の問題の一つである。「二方が立たず」という問題は世の中によくあるが、「三方が立たず」「四方が立たず」という問題も、いまの東北各地には多くあると思う。これが、大震災という未曾有の災害が人々に残す、たくさんの爪痕の特徴なのだろう。
今日、我が家ではどうやら水が完全に復旧した(と思われる)。あれほどの大地震の後でも、二十日間足らずで水道から水が出るというのはすごいことだと思う。毎日作業にあたられた方々に深く感謝したい。ある先輩が「仙台は毎日が水曜日」とメッセージをくれたが、たしかに市内のどこかで毎日水が出て、嬉しい水の日=水曜日を迎えている。ただ、県内に目を拡げるとまだまだ断水地区が多く、依然として給水車が頼りという人も多いはずだ。
水汲みは、いざやってみると想像以上に厄介な作業ではある。しかし、毎日の暮らしにどうしても必要なことだ。上下水道の整備のない干ばつ地域の子どもたちが、毎日の仕事として数キロ先まで水を汲みに行き来するという話をよく聞くが、たとえ厄介でもやらずには済まされないのが水汲みである。一刻も早く、断水地区に水が出て「水曜日」が迎えられるように、また電気やガスが復旧して、暖や温かい食事がとれる「火曜日」も迎えられるように、心から祈りたい。そして、文字どおり全国の市町村から来てくれた給水車(私はよく「札幌市」と「出水市」の給水車を見かけた。「出水」という地名のなんとふさわしいことか!)とそのスタッフの方々に、心から御礼を申し上げる。
前回のブログで「地震は卒業する」と書いたが、また地震のことを書いてしまった。まぁ、そもそも前言撤回をしてから書いているものなので、ご勘弁願いたい。今回の更新の一番の趣旨は、前回の文章を読んでいただいた方々への御礼である。長く拙い文章を(今回を含めて二度も)読んでいただき、本当にありがとうございました。次の更新がいつになるかはわかりませんが、またお会いしましょう。
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