2011年3月28日月曜日

20110328

20110328

 前回このブログを書いてから、約一週間が経った。この間に、予想をはるかに超えるカウント数を刻むことになり驚いている。また、読んでいただいた友人・知人より、多くの感想やコメント、twitterRTなどをいただくことで、あらためて自らの文章を多方面から読み直すことができた。これは即ち自らの震災後十日間の生活をふり返ることにもなり、図らずも今の自分の立ち位置を再確認することにもなった。このきっかけを与えてくれた本ブログ読者の方々に、心より御礼申し上げる。

 前回のものに書いたとおり、このブログはすぐに消去するつもりでいた。もともとは震災後の身のまわりのことを備忘録のつもりで書き残し、一つは紙にプリントして封筒に入れ、もう一つはUSBメモリかCDに記録しておき、震災後五十年の日に息子に読むようにいつか言いつけておこうと考えていたものだ。五十年後、私は生きている気がしない。でも、現在生後二ヶ月の息子なら、おそらく五十歳の誕生日を迎えた後、「あの東北関東大震災から半世紀」などという世間の声を聞きながら読むことができるだろう。その際、果たして「紙」が五十年間を生きることができるか(散逸や遺失を乗り越えて、五十年後も紙に書かれたものとして読めるかどうか)、それともデータが残るか(現在我が家で出来得るデータ保存方法が、五十年後に再現可能かどうか)についても関心を持っている。たぶん、確かめようがないとは思うが。
 しかし、ある友人から「その文章を読んでみたい」と言ってもらい、また別な友人からは、備忘録を書くのとは別のモチベーションを刺激される言葉をもらった。ならば、と思い、ひととおり書き終えた後、ブログを作ってアップしたという次第である。もちろん、読んでくれる他者がいることを意識して書いたものなので、息子が読むためにと考えていたものとは大幅に異なる。それでもアップした意味があったなと思えるのは、まず上に書いたとおりたくさんの感想やコメントをいただいたことと、そしてこの文章が五十年後にもネット上に残っているかどうか、紙・電子データに続く三つ目の記録手段になり得るかもしれないと考えたからだ。前言撤回となるが、とりあえずこのブログは残してみようと思う。

 今日、地震以来はじめて職場のスタッフ4人が勢揃いした。久々に出勤した一人は、津波で壊滅的な打撃を受けた宮城県の沿岸部の町に住んでいる。家は高台にあり、ご家族もみな無事だった。本当に良かった。当日本人は、地震発生後すぐにクルマで帰路についたが大渋滞に巻き込まれ、やむを得ず途中で帰宅を諦めてその晩は車中泊したそうだ。途中、建設会社がビルの前に簡易的に避難テントを設営し、そこで発電機を回して灯りと暖房と携帯電話の充電を提供していた。そこで携帯電話の充電ができたことで、当日中に家族との連絡が取れたという。こういうエピソードは、きっと数えきれないくらいあり、それらの多くが他の人に知られることのないままに消えていくのだろう。
 私はあの日、仕事帰りにクラブ(水泳)に行って練習をするつもりだった。そのため、昼間に大学生協で菓子パンとジュースを買い、夕方にそれを食べてからクラブに行こうと考えていた。地震が発生した直後、上記の職員がクルマで帰ると聞き、何かあった時のためにとその菓子パンとジュースを差し出したのだが、「大丈夫だと思う」と言って遠慮されてしまった。その後、車中泊や徒歩での帰宅の様子を知り、無理にでもパンとジュースを押し付けていれば、少しはお腹の足しになったはずなのにと胃が痛くなるくらいに後悔した。また、優しい職員なので、他の人にも菓子パンを分け、何人かの人のパワーに役立ててもらえたのではないかとも考えた。今朝もその話になったが、実際は「食べることなど忘れるくらい、とにかく出会う人と情報を交換して、安全に家に帰る手段を得ることに必死だった」ということだ。
 少し話がずれるが、普段持ち歩くカバンの中に、何かしら口に入れられるものを持っておくことは大切かもしれない。「カロリーメイト」のようなものや、飴やチョコレートでもいい。クルマであれば、ペットボトルの水を積んでおいても良いだろう(私は徒歩通勤のリュックの中に必ず水を入れている。クルマにも500ミリリットルの水とお茶、砂糖入りの缶コーヒーを入れておいた)。
 その職員が言うには、今日久々に仙台に来てみて、店は開いているし人もたくさんいて、住んでいる町とは別世界らしい。たしかに、仙台は二週間前と比べて賑わいを取り戻しつつある。

 私は相変わらず徒歩通勤をしているが、地震前と比べて一番の違いは、通勤ラッシュの時間帯なのに走っているクルマが驚くほど少ないことだ。まるで休日の早朝のようである。理由は二つ考えられる。一つは、まだ解消されてないガソリン不足。この土日に、地震後はじめての風呂に入りに妹宅にクルマで行ったのだが、片側二車線の幹線道路がところどころ無理矢理三車線になっている。一番左の車線はガソリンスタンドに並ぶクルマの列である。開いているスタンドごとに現れるその列の長さは、呆然とするほどである。どこも「整理券を持っているお客様が対象」「一台15リットルのみ」「一人2000円分を200台限定」などと制限を設けているが、並んでいるすべてのクルマにいき渡るとは到底思えないほどだった。週明けからの仕事で使う人も多いのだろう。ガソリンはまだまだ自由になりそうにない。もっとも、仙台で自由になる前に、他の本当に必要なところで自由に使えるようになってほしい気持ちが強い。
 クルマが少ないもう一つの理由は、これまで通勤車両の主線となっていた道路が「土砂崩れ」で不通となっているためである。私が住む郊外の住宅街からは、中心部と行き来するための道が大きく分けて三本あるが、そのうち二本が不通となっているのだ。そのため、徒歩通勤の途中はクルマをほとんど見かけず、よって排気ガスを被ることもない。
 「土砂崩れ」とは、広瀬川沿いの長い坂道・鹿落坂(ししおちざか)の途中にある老舗旅館「鹿落旅館」の半壊のことを指している。今回の地震による仙台市内での建物被害は少なく、その珍しい例として語られることも多いのだが、この半壊は、実際は「土砂崩れ」とも「地震による倒壊」とも言い難い事情がある。

 私がこの「土砂崩れ」を知ったのは、地震当日の帰宅途中だった。長くなるが、当日のことも少し書いておこう。
 前述のとおり、仕事の後にクラブへ行くつもりだったので、職場にはクルマで出ていた。地震後、停電で信号が消えてしまい渋滞が起きていることはわかっていたが、翌日以降もクルマを使う必要は出てくるだろうと考えたので、なんとかクルマで帰ろうとした。しかし、大学の敷地を出てすぐに渋滞で動けなくなる。普段なら1分ほどで達する丁字路まで、その時は15分ほどかかったと記憶している。いつもどおりの道を帰ろうとウィンカーを上げると「土砂崩れ」と手書きのボードとフェンスが出ている。「そこまで大きな地震だったのか」とあらためて思い、逆方向にハンドルを切って進んだ。対向車線のクルマの列を見ると、また大学構内に戻ってクルマを置くのも相当の時間がかかりそうだった。そこで、すぐ脇にある瑞鳳殿(伊達政宗公の霊屋)への坂道を上り、その駐車場にクルマを置き、あとは歩いて帰ろうと考えた。駐車場には空きスペースがあり、そこに駐車して必要なものをリュックに詰め、不要なものはクラブ用のカバンに入れ替え、カバンはクルマに残して車外に出た。この時、瑞鳳殿周辺は視界を塞ぐくらいの大雪が降っていた。スピリチュアルなことは苦手なのだが、大地震後の大雪に見舞われたこのとき、ふと「『天地が怒っている』とか『神の逆鱗に触れた』という表現は、この状況なら許されるかもな」と思ったことを覚えている。
 クルマを停めたことを一言ことわらなくてはと、まずは瑞鳳殿の受付に向かった。受付は、急な坂の上の、さらに急な長い石段をのぼった先にある。両手を額にあてて降る雪を遮りながらのぼっていくと、急に視界に黒くて丸いものが入った。視界をせまくしていたので目の前ではじめて気がついたのだが、おばあさんがうずくまっていて、目をつぶっている。「どうしたんですか? 大丈夫ですか?」と声をかけると、「急に歩いたから、めまいがして」と、細い声で返す。おそらく、交通がマヒして徒歩で帰らざるをえなくなり、長い石段を上ってきたのだろう。とりあえずおばあさんを背負ってのぼることにした。今は丈夫なスニーカーに動きやすい厚手のズボン、軽いダウンジャケット姿で徒歩通勤しているが、その日は革靴にスーツと薄いコートだ。まさか雪の積もった石段を、おばあさんを背負ってのぼることになるとは…。息を切らしながら受付まで行き、出てきた女性の肩も借りながらおばあさんをベンチに座らせた。「少し休めば大丈夫」という声が聞き取れ、少し安心した。瑞鳳殿の職員の人たちも情報がなく困っていたようで、「街なかの信号は点いてますか?」「クルマで移動はできそうですか?」などと矢継ぎ早に問われる。とりあえず自分が見てきた状況を話し、駐車場にクルマを停めた旨を話すと、「こういう時ですから、落ち着くまで停めておいていただいて結構ですよ」と言ってくれた。礼を言い、名刺を渡して家に向かって歩き始めた。
 住宅街を通る道は、細くて急な坂が多い。前にも後ろにも徒歩での帰宅者がいて、余震が起こるたびに「気をつけて!」
「頭を守って!」と声がかかる。雪が静かに降る中、目と耳と足元で余震を警戒しながら、道の真ん中を一列になっておそるおそる歩く。真上から見ることができたなら、白くなった道路の真ん中を人の列だけが動く、奇妙な映像になったことだろう。その途中で、前からか後ろからか、「鹿落旅館が崩れたって言うんだから、かなりの揺れだったんだよ」という声が聞こえてきた。「あぁ、あの『土砂崩れ』とは、鹿落旅館のことだったのか」と、少し前と記憶がつながった。

 「鹿落坂」と呼ばれる坂の上にある鹿落旅館は、広瀬川を眼下に見る老舗の旅館である。瑞鳳殿を中心とした「経ヶ峯」の一角にあり、これまた老舗の懐石料亭「東洋館」や、小さな「鹿落観音堂」と隣接している。“鹿落”の由来は、「鹿が駆け下りて広瀬川に水を飲みにくる」とも、「鹿ですら落ちてしまうほどの断崖」とも聞いたことがある。鹿落旅館は、かつて大相撲の仙台準場所があったころは、上位ではない力士衆の宿泊所になっていた。夏の準場所の時季になると、浴衣姿の力士たちが手ぬぐいで汗を拭きながら鹿落坂を上り下りしていた姿を今でも覚えている。そんな鹿落旅館が崩れたと聞いて、思わず立ち止まってしまった。それゆえ、雪まみれで帰宅し、迎えてくれた家族に伝えた第一報は、職場の諸々のことや渋滞や徒歩帰宅のことではなく、「鹿落旅館が倒壊したらしい」だった。

 鹿落旅館に隣接している「鹿落観音堂」には、ご年配の尼僧さんがお一人でいる。この尼僧さんとは以前からお付き合いがあり、機会があれば立ち寄っていた。地震後の徒歩通勤のおかげで帰り道に寄れるようになり、通勤途中に買った野菜や果物を持ってお邪魔し、家族の無事の御礼や被災者の方々の御見舞いをご本尊様に上げていただいたりもした。その際、「ちょっと外へ廻ってご覧なさい」と言われ、崖側、つまり倒壊した鹿落旅館の裏側を上から見せてもらった。ここで思わぬ事情を知った。旅館の裏側に巨石、いや巨岩が二つ、突き刺さっている。そのあまりの迫力に、衝突時に舞い上がったであろう砂埃の臭いを錯覚で感じるほどだった。鹿落旅館は地震で倒壊したのではなく、地震によって崖の上から落ちてきた巨岩によって突き破られたのだ。その巨岩は、崖の上の「東洋館」の庭にあったものらしい。かつて東北帝国大学の教員たちが「サロン」を開き、今も仙台で学会が開かれると宴席の一つとなる“名所”の東洋館なら、あれほどの巨岩が庭にあってもおかしくない。

 以前のように鹿落坂をクルマで通れるようになれば本当に有り難いのだが、それにはまず安全の確保が必要となるだろう。そのためには、旅館の残り部分についても厳しい判断が下されるのかもしれない。うわさ話に聞くところだと、鹿落旅館のご主人は、旅館脇のクルマの中でずっと車中暮しをしていらっしゃるらしい。なんとも、言葉が出ない。

 今日も通勤途中の霊屋橋から鹿落坂を見たが、重機が入っている様子はなかった。仙台市内でも数少ない(と思われる)、主要道路の通行止め箇所である。いち早く処理がなされるような気がする反面、重機類は被害の大きい沿岸部で優先して使われるべきとも思うし、うわさ話ながら車中泊のご主人を思うと、どう解決されるべきなのかは見当がつかない。これも、今の仙台が抱える地震後の問題の一つである。「二方が立たず」という問題は世の中によくあるが、「三方が立たず」「四方が立たず」という問題も、いまの東北各地には多くあると思う。これが、大震災という未曾有の災害が人々に残す、たくさんの爪痕の特徴なのだろう。


 今日、我が家ではどうやら水が完全に復旧した(と思われる)。あれほどの大地震の後でも、二十日間足らずで水道から水が出るというのはすごいことだと思う。毎日作業にあたられた方々に深く感謝したい。ある先輩が「仙台は毎日が水曜日」とメッセージをくれたが、たしかに市内のどこかで毎日水が出て、嬉しい水の日=水曜日を迎えている。ただ、県内に目を拡げるとまだまだ断水地区が多く、依然として給水車が頼りという人も多いはずだ。
 水汲みは、いざやってみると想像以上に厄介な作業ではある。しかし、毎日の暮らしにどうしても必要なことだ。上下水道の整備のない干ばつ地域の子どもたちが、毎日の仕事として数キロ先まで水を汲みに行き来するという話をよく聞くが、たとえ厄介でもやらずには済まされないのが水汲みである。一刻も早く、断水地区に水が出て「水曜日」が迎えられるように、また電気やガスが復旧して、暖や温かい食事がとれる「火曜日」も迎えられるように、心から祈りたい。そして、文字どおり全国の市町村から来てくれた給水車(私はよく「札幌市」と「出水市」の給水車を見かけた。「出水」という地名のなんとふさわしいことか!)とそのスタッフの方々に、心から御礼を申し上げる。

 前回のブログで「地震は卒業する」と書いたが、また地震のことを書いてしまった。まぁ、そもそも前言撤回をしてから書いているものなので、ご勘弁願いたい。今回の更新の一番の趣旨は、前回の文章を読んでいただいた方々への御礼である。長く拙い文章を(今回を含めて二度も)読んでいただき、本当にありがとうございました。次の更新がいつになるかはわかりませんが、またお会いしましょう。




2011年3月22日火曜日

20110322

20110322

 東北地方太平洋沖地震から約十日が過ぎた。まずはこの地震・津波で尊い生命を落とされた方々を哀悼し、そのご家族・ご関係の方々に心からお悔やみを申し上げる。そして、各地の避難所で厳しい毎日を過ごしていらっしゃる方々の、一刻も早い環境改善やもとの生活への復帰を祈る。
断っておくが、お決まりの言葉を並べて座りの良い導入にしているつもりは全くない。今回の被害は、規模が大きく、しかも広範囲にわたっている。我が身には何も起こらず、しかも家族みな無事という幸運に恵まれたが、友人・知人に少しご縁を広げるだけで、厳しい状況に突き当たる。家を無くした(らしい)という親戚や直接の知り合いは、今日までに分かっただけで片手の指を超える。避難所にいる(と思われる)知り合いも多い。「知らない誰か」に対して使われやすい冒頭の言葉を、「知っているあなた」に届ける気持ちを抱いて記す。

 仙台市太白区在住の私は、今回の地震発生時、仙台市青葉区の職場にいた。職種は大学出版の編集者である。仙台に住む多くの人がそうであるように、地震には「油断はしないが慣れている」つもりでいたが、今回の揺れは独特だった。気取った喩えをするつもりはないのだが、グラスの中のワインを揺らす際の、そのワインの表面のような動きを足元がしたように記憶している。ある友人は、「建物全体から、聞いたことのない音がした」と言い、また別の知人は「たぶん気のせいだと思うが、長机が宙に浮いた瞬間があったように見えた」と言う。そのくらい、大きな地震だった。

現在、自宅で水・ガス無しの生活となっている。電気は地震後34日ほどで戻り、ずいぶん救われた。水の復旧は今月31日、ガスは当初「一ヶ月程度で」との発表があったが「不明」と訂正された。この二つはもう家には無いものだと考えることにした。「水は汲み行くもの。ガスは、よく知らんが、しばらく関係無いもの」くらいの感覚でいれば、さほど困ることではない。水は隣の学区の集会所や公園で汲めるし、職場にはすでに戻っている。ガスは、無くても命にかかわることはない(むしろ、ガスに身を包まれてしまったら命にかかわる)。ガスと言えば風呂に入れないことがネックだが、少量の水で湿らせたタオルを電子レンジにかけて蒸しタオルをつくり、それで体を拭き洗いしている。シャンプーは、歩いて30分ほどの美容院(水道復旧地区・オール電化)で500円でやってくれるとの情報を得て、一昨日行って来た。地震前は毎日洗っていたのに、「次にあそこに行くのは、また一週間後だな」などと考えてしまっている。タフになっているのか、感覚が麻痺しているのか、自分でもわからない。
今の生活は不便と言えば不便なのだが、実際は「便利を失った」にすぎない。便利を失うことが即ち不便ではなく、便利と不便のちょうど中間の位置に立っているように思っている。

家具の被害は小さく、割れた瀬戸物が23個程度である。ただ、本棚の本がほぼ全て飛び出した。実はこの大地震の数日前にあった地震(「前震」と言うのだろうか?)のあと、本棚の空間を埋めるべくかなりきっちりと差して並べたつもりだったが、その予防策は無駄だった。思うに、地震で家の中の物が落ちるというのは、「倒れ落ちる」というより「滑り落ちる」ということで、モノとモノとが接している面が「揺らされて滑り動く」ことで起きる。紙(本)と木(本棚)は、たしかによく滑る。逆に、食器の下に布を敷いていた戸棚などは、食器と布、布と戸棚の摩擦が効いたのか、グラス・カップなども倒れずにいた。
唯一大きなものでは、テレビが1メートルほどの高さから床に落ちた。このテレビは我が家で最も古いテレビ(もちろんアナログ)で、各部屋を転々として私の寝室に収まっていたものだ。まずリモコンが効かなくなり、次に画像がひどく荒れ、視聴できるチャンネルがどんどん減り、さらには音声すらノイズが入って聞き取れなくなるという老い方をしていたが、最後には自ら身を投げるという劇的な終わり方を選んだ。まるで「はやぶさ」のような奴である。このテレビを弔うために、この先一年間は喪に服し、新しいテレビを買うことはやめようと思っている。まだ彼の身を起こしてやるに至ってはいないが、もしかしたらまだ映るのではないかと、わずかな期待を抱いている。

地震後、生活は少々変わった。同居の母が妹の家(こちらも無事だが、小さい子どもが二人いる)の支援にまわり、自宅では私・妻・息子(二ヶ月)の三人生活が始まった。私にとって、当面の(いま現在もそうだが)の最大の使命は、妻の母乳を止めないことになった。妻の母乳は、まさに息子の生命線である。紙オムツは、これまた幸運なことに地震の翌日に近所のドラッグストアに並んで1パック(90枚入り)買えたし、おしり拭きも大量にストックがあった。それゆえ、息子についての心配は、食事=妻の母乳に関することだけだった。私だけの食生活なら飢えをしのぐ程度でもなんとかなるが、妻には、母乳のためにも本人のためにも、一定の量と栄養バランスの良い食事、そして十分な水分を摂ってもらわなくてはならない。ここ十日間ほどの一番の優先事項はそれであり、今後も物資不足が解消されるまでは継続しなくてはならない。

食料は家の中の備蓄を有効に活用し、運がよければ追加の食材を仕入れるということにした。水は、家にあった非常用の買い置きと、近所の知人から譲ってもらった分(その人の職場は断水しなった)と、妻の実家から義父が届けてくれたペットボトル数本からスタートし、その後は汲みに行った。食材も水も無駄なく活用するために、食事は石油ストーブの上で調理でき、一品で栄養バランスを保てるような料理(白石温麺入りの味噌汁、マカロニ入りの野菜スープなど)などが今も続いている。
職場には14日(月)から出たのだが、徒歩での通勤途中に小さな八百屋さんが開くことがあった。そこに並んで野菜や果物を仕入れ、職場で山分けし、仕事を終えてリュックに詰め込んだりぶら下げたりして帰宅する。ちなみに、その八百屋はおばあさん一人で仕切っている店なので、開店準備は並んだお客たち総出でやるのが恒例になった。「助け合いの精神」「一刻も早く食材がほしい」「雪が降る中、ただ立って待っているのは辛い」「体を動かして、寒さと空腹を紛らわそう」など、各々が様々な思惑を持っての行動だったと思うが、結果的には誰にとってもメリットになることだった。
ある朝、NHKのローカルニュースを観ていると、仙台市内でも安くて新鮮な野菜が買える有名な商店街での映像で、「キャベツ一玉500円」という値札が写った。私の感覚では、一玉250円でも「高いなぁ」と手が伸びない値付けなのだが、その倍とは。非常時の流通で何らかのやむを得ない理由が生じるのだろうが、我々仙台市民が足元を見られているようで、無性に悲しく悔しかった。よく言われる「便乗値上げ」にも、この十日間で私自身遭っているのかもしれない。でも、それを考え始めると気持ちが荒ぶし、「妻の口に入り、母乳になって息子の口に入った」と考えれば納得できないことはない。値上げ分の利益で食材を多めに仕入れてもらい、それを店に出してもらって多くの人の手にわたるなら、それでも良いと思うことにした。

野菜・果物はなんとか買い物で調達することで、ビタミン・ミネラル・食物繊維を得られる。米・小麦粉・冷凍パン・乾麺パスタ・その他乾麺(冷麦・白石温麺・蕎麦・うどん)の備蓄を上手く回せば、炭水化物の摂取もそれなりに維持できそうだ。あとはタンパク質だが、家に高野豆腐や味噌(汁)があったし、冷凍・燻製パックの魚介類も少ないながら備蓄があった。また、これまで二度ほど魚屋が開いているのに遭遇し、鮭の切り身・鯖の切り身・たらこ・筋子を入手することが出来た。これは職場の同僚や妹の家にも大いに喜ばれた。肉についてはほとんど諦めているし、仮に入手できても、充分に水洗いができるほどの水がないので、たいてい油を必要とする肉の調理と洗い物はかえって面倒になるとも言える。肉を家で食べるのは、かなり先になるだろう。

洗濯はコインランドリーに行っている。私と妻の衣服はなんとかなるものの、息子のベビー服は数が少ないし、毎日替えてやりたいし、早くも親不孝なことに時々汚す。職場が大学構内なので、周辺は学生街の名残りが若干ながらあり、コインランドリーもあった。職場の辺りはずいぶん早く水が出たので、混んで困るということもない。リュックとは別に大きなビニル袋をたすき掛けし、それに洗濯物を詰め込んで出勤する。昔話ではないが、「お父さんは、街へ洗濯に」である。コインランドリーの利用の仕方は客同士で申し送りされ「洗剤は自動的に出るらしい」「その量なら300円で充分」「乾燥機は30分回さないと意味がない」などの情報が共有された。店を出るときはお互いに「がんばりましょう」と挨拶を交わす。似た境遇は連帯感を産むのだ。

水は4日ほど前から隣の学区の集会所で汲めるようになった。リュックに空のペットボトル・水筒・麦茶用ボトルなどを押し込み、自転車で向かう。そこ以外に公園や小学校内にも水道があり、近所の住民の間では「私は水が汲めるところを3ヶ所知っている」「私は4ヶ所だ」「並ばず汲めるところを1ヵ所見つけた」などの情報が飛び交っている。まるで誰もが、山菜採りの名人のように「穴場(水場)」を頭に入れている状態だ。
水汲みの列に並んでいると、中には「温水プールでも経営しとんのか?」と言いたくなるくらい大量の水を多量のポリタンクに汲んでいく人もいるが、複数の容器に小分けに汲み、何度も列に並ぶ人が多い。この慣例がどのように生まれたのか不明だが、回転が良くなることで短い時間に多くの人に水がまわる。
水を汲む容器と言えば、現場で実に様々なものを見た。ポリタンクやペットボトルが主流で、特に取っ手付きの大型ボトル(たぶん焼酎の「大○郎」などだろう)は持ちやすく重宝しているようだった。衣装ケースにゴミ用のポリ袋を敷いて汲んでいる人もいたし、直接ポリ袋に汲む人も少なくなかった。一番印象に残っているのは、加湿器の容器である。普段は散布することが目的だが、逆転して汲み置くことを目的に利用されている。普段まわりにあるモノの、非常時の利用のされ方を見るだけでも興味深かった。
この集会所には、給水車も来た。なぜ水道が生きているところに給水車が来るのか。来るなら水が出ていない地区に来てほしいと思うのだが、いま行政の混乱を非難しても仕方ないし、この状況下では混乱するのが普通とも考えられる。昨日汲みに行ったときには、水道にも給水車にも列が出来ていなかった。給水車のスタッフが少々困ったような顔をしていたので、「こっちの蛇口から汲みますから、いいですよ」と言うと、「いやぁ、そうですか、助かります! もうほとんどカラっぽで、早く戻って汲み直さなきゃいけないんです。ありがとうございます!」と言われ、走り去る際も窓を開けて「ホントに助かりました! ありがとうございます!」と礼をされた。この十日間、給水車のスタッフに対して「助かりました」「ありがとうございます」と声をかけた仙台の水難民は数多くいるだろうが、給水車のスタッフから「助かりました」「ありがとうございます」と言われた仙台の水難民は、たぶん私くらいのものだろう。

生活人としての行動は以上のようなところだが、社会人としての行動も当然ながら少々の変化があった。14日(月)から通常どおり出勤し(通勤途中で仕入れた野菜を持ち込むなど、通常ではない異常はあったが)、職場の状況把握と今後の対処にあたった。サーバーのダウンによるメールの不調や、郵送物の遅れ・滞り、さらには製作中の商品(書籍)の工程の練り直し等、頭が痛くなる懸案は現在も山積しているが、まずは何より、元気に営業していることをアピールしなくてはならない。「あそこはまだ復旧できず、営業できる状態ではない」などと思われてしまったら、せっかくの注文も得られず死活問題となる。かかってくる電話にはいつも以上に元気に出て、相手からの心配の声を遮って吹っ飛ばすことこそ、職員として、また仙台で働く社会人としての役割と考えている。
お付き合いのある印刷会社さんとはほぼ連絡が取れ、無事が確認できている。ただ、今後の状況はかなり厳しい。印刷機がダメージを受けていればメンテナンスが必要だが、そのノウハウを持っている技術者は全国で引っ張りだこでいつ来てくれるかわからないらしい。仮にすぐに来てくれても、修理の度合いによってはさらに時間がかかるだろう。そして最大の問題は紙の確保だ。紙の倉庫は輸送に便利な港近くにあるものだが、その多くが津波の被害を受けている。印刷業界の間で、「紙の買占め」のような事態が起こる可能性もある。ある営業さんは、「在庫以外の紙の手配については、申し訳ありませんが全くの“白紙”なんです」と言う。うまいことを言っているようだが、笑えない。しかし、こんな冗談を笑ってあげることが、今の仙台には必要でもある。当分は出版・印刷業ともに苦戦が強いられるのだろう。
職場の状況については、こちらも驚くほど被害は少ない。書庫の本は少し崩れたが、商品にならないレベルではない。PC等の機器もすべて稼動している。職員も全4名すべて無事だ。先に書いた買い物やコインランドリーは、出勤前や昼休みを利用して大急ぎでやっているのだが、上司には多少の遅刻を黙認してもらっているだけでなく、「俺も野菜を買ってくるようにカミさんに言われているから、その八百屋を教えて」と、執務時間中に一緒に買出しに行ったりもした。お互い、風呂に入れない同士だが、「体がくさいということは、生きている証拠だ。大いに喜ぼう」と言ってくれる。シャンプーもずっとできなかったが、「フケが出るということは、ヅラじゃない証拠だ。ナイショでヅラをかぶっている人は、余震の恐怖だけでなくバレる恐怖とも戦っているのかもしれない」などと笑ってくれる。他の職員も、遠隔地で通勤がままならなかったり、年配の家族の病院通い等で遅刻・早退をせざるを得なかったりしているが、それらもすべて認められている。普段から「まずは職員の生活が第一!」と言ってくれているのだが、この非常時に本当にそう考えてくれている。よい上司に恵まれたと、心から感謝している。
仕事についてもう一つ。先週、書店さんから書籍の注文電話を受けたものの、商品搬入日の約束ができない(運送業者もまだ正常には動けていない)ことを伝えた。するとその書店さんは、「そちらさんたちで出している本は、一ヶ月そこら読むのが遅れても、意味がなくなるような内容じゃないでしょう。大学の先生方がきちっと書いたものなんだから。お客さんにはそう言って待ってもらうから、出せるようになったら出してよ」と言われた。これが嬉しかった。大学出版の価値を、この書店さんにあらためて教わったような気がした。この言葉に「たち」が付いていることに注目。これは私の職場だけでなく、他の大学出版の仲間にも向けられた言葉であると解釈している。仲間とともに、これからも大学出版の求められる役割を担っていきたい。

この十日間で見た仙台の姿、仙台人の姿は、実に清々しいものであった。先述した水汲みの並び方もそうだが、八百屋での行列も乱れたことがなかった。また、例えば「一人何個まで」と買う個数を決められた商品(トマトやジャガイモなど)でも、その個数マイナス12個をカゴに入れ、後に並ぶ人にも残るような買い方をしている人がほとんどだった。会計時のお釣り不足は、客が買い物を減らして調整するか、周りの客が両替やお手伝い(=代わりに支払い)をして解決していた。当然、お手伝いされた側は、買った商品の中からイモ1個、キュウリ1本をお返しに渡す。こういうことが自然にできるというのは、人の本質にかかわることなのかもしれない。整然と会計に並んでいるとき、後ろのほうから「テレビでやってたけど、東京ではトイレットペーパーの買い占め騒ぎが起きてるってね。いやぁ、どこもたいへんだねぇ」という会話が聞こえてきた。もはや、ブラックジョークである。
帰宅途中、道端の自動販売機の前で、おばあさんが背伸びをしていた。自販機にお金を入れたはいいが、買いたい商品のボタンが上のほうにあり、手が届かない様子だった。代わりに押してあげると、「助かったわー、お礼にご馳走するから、どれでも好きなの買って!」と、小銭を差し出された。電気が復旧して間もなくで、自販機の水やお茶類が貴重だった頃である。「いやいや、悪いですよ」と丁寧に断って去ったが、その後考えると、喜んでご馳走してもらうべきだったと後悔した。
一昨日は、美容院でのシャンプーの帰りに、長く急な階段を、両手に食材を持って休み休み登っている女性がいた。「階段の上まで、お手伝いしますよ」と言い、荷物の一つを両手で抱えて(かなり重かった)登った。階段の上で息を切らしながらお礼を言われ、コンビニのおにぎりを一個手渡された。今度はありがたく頂戴した。
もし30年後に同じような災害が起きたとしたら、年齢からすると私は助けられる側になるのだろう。その時、助けてくれた人に感謝の心を伝える手段は、言葉に添えて缶ジュース一本、おにぎり一個を手渡すことくらいしかできないのかもしれない。そう考えると、今の遠慮はかえって失礼になるし、感謝の心に背くことにもなりかねない。感謝の心は、気持ちよく受け取るべきだ。この十日間で、仙台の人たちから学んだことの一つである。

地震が起きた後、東京在住の大学時代の仲間から「そっちの生活は何かと不便だろうから、奥さんと子どもを連れて我が家に来ないか。部屋ならあるし、ゆっくりしてもらえると思う」というメールをもらった。本当に嬉しい申し出であったし、東京に行けばいまの不自由もだいぶ解消されるのかもしれないと思ったが、礼を言って断った。生まれ育ち、今もこれからも住むこの街を、そうそう簡単に離れるわけにはいかない。東京での大学生活・社会人生活を経て、帰郷して十数年になる。うぬぼれととられても構わないが、この街に細く短いながらも自分の根を張り、生きてきたつもりである。そしてその根は、この街に暮らす多くの仲間達の根と絡み合い、その力を借りて仙台という地を固める小さな小さな一助になっていると自負している(これは完全なうぬぼれだ)。その地が天災で揺さぶられ、危機にあるからといって、自ら根を抜くようなことは絶対にできない。私の根が抜けたところで、仲間達の根は仙台の地を強く固め続けてくれるだろうが、私の根と絡んだ仲間の根まで、少し抜いてしまうことになる。そんなことはできない。これは「郷土愛」や「地元志向」という言葉とは異なる感情だと思う。強いて言えば「誇り」だろうか。仙台に生きることを誇りに思う気持ちが、今の私にはある。それゆえ、東京電力原子力発電所事故によって住む街からの避難を余儀なくされた福島県の方たちの姿を見ると、胸が痛くなる。続ける言葉が見つからない。

この十日間で、一度だけ腹立たしく思った出来事があった。地震の翌日、給水車が小学校に来るというので、水筒やペットボトルをリュックに入れて行ってみた。広いグラウンドを三周するほど人が並び、とても自分のところまで回ってくるとは思えなかったが、様子を見てみようと少し並んだ。自分の二つ前に並んだ男性が、その前に並んでいる女性に、災害時の備えや物資の調達法(水は普段から買っておけ、店は開く前から並べ、程度のこと)を話しながら、タバコを吸い始めた。タバコは周りにいる人にとって迷惑になることが多いし、小学校の敷地内は禁煙のはずだ。さらに嫌な予感(屋外での喫煙を見ると、この嫌な予感は高い確率で当たる)もしたが、すぐに終わるだろうと何も言わないでいた。
やはり、予感は当たった。その男性は火の点いた吸い殻を足元に落とし、サンダルで踏み消し、そのままでいる。しかも、二度も。そもそもポイ捨ては言語道断の悪行だが、ましてや小学生が運動したり遊んだりする土のグランドである。よっぽど皮肉たっぷりに罵倒してやろうかと思った(「あなたにとってタバコは、他人の迷惑なんて顧みず、所構わずプカプカ煙を吐き出すほど大好きで、大切で、欠かせない、かけがえの無いものなんですよね? ならば火の点いた吸殻も大事にポケットにしまって持ち帰るか、いっそのこと食べてしまってはいかがですか?」などと)が、その内容はその男性にだけ聞こえればいいことだ。言葉に出せばどうしても周囲の人の耳にも入ってしまい、その場の空気を悪くする。水汲みが絶望的なその場で、さらに空気が悪くなるのは避けたい。ならば言葉ではなく、黙って蹴り潰して吸い殻と同じにしてやろうかと思ったが、それも周囲の人の目に入ってしまうし、何よりも暴力は良くない。そして、空気も悪くなる。
水も汲めないようだし、そういう男性の近くで貴重な人生の時間を過ごすのはやめようと列を出て帰宅したが、やはり戻って冷静に注意し、場合よっては自分で吸い殻を拾って家のゴミ箱に捨てようかと、何度か足を止めた。小さなことと言えばそうだが、「非日常の中にある、日常の悪」がいかに醜く、下劣で、許し難いことかを知った。

また別な話だが、ある知り合いの家に届け物をしたとき、缶ビールをもらった。その時気づいたが、地震後はアルコールを口にしていない。そんな気持ちの余裕はなかったし、普段から家に買い置きなどもない。気分転換と睡眠のためにアルコールを口にすることは悪いことではないと思うが、いつ大きな余震があるかわからないし、いつ妻や息子の体調が悪くなるかもわからない(そのために、自家用車は充分な量のガソリンを入れたまま使わないでいる)。いずれにしろ、飲むのはずっと後のことになるだろうと思いながら受け取った。「買い置きですか?」と訊くと、地震の影響を見に港のほうまで行ったら、ビール工場近くでその会社のトラックが横転していて、周囲に缶ビールが転がっていたらしい。それを拾って来て洗ったものなので、中身は大丈夫だという。
その知人の手前、そのまま受け取って帰ってきたが、帰宅してすぐに捨てた。口に入るものを捨てることは、現在の食糧事情や空腹感とは別な気持ちからも本当に申し訳なく残念なことだったが、とっておく気も飲む気もしなかった。もしかしたら「拾得物」扱いになるのかもしれないが、その出どころはある程度はっきりしており、状況は限りなく「盗難物」に近いような気がする。食料はたしかに豊富ではないが、そのようなものを口にすることはできない。たとえ便乗値上げされていようが、自分が働くことで得た収入で買ったものか、あるいはありがたい善意とともに分けてもらったもの(こちらも書ききれないほど多い)しか、口にはしない。地震が起きたからといって、この当たり前のことは変わるわけがないし、変わっていいわけもない。 
缶ビールはその場で受け取らないか、あるいは捨てずに後日返せば良かったのかも知れないが、わずかな会話の中でつい受け取ってしまったし、相手はまったくの善意からのことなので、後で返すにしても理由を訊かれたら厄介な説明になってしまう。口に入るものを捨てたことも重なって、この件については今も気持ちが晴れない。いっそ、早く忘れてしまおうと思っている。そして出来れば、地震後の最初のビールは、このビール会社のものにしたい。捨ててしまった分、いつもより余計に買ってたっぷりと飲む。

順序が遅くなったが、多くの心配の声や、無事を伝えた後の喜びの声に、心から感謝したい。大学時代の仲間から届いた「大丈夫か? 怖くてずっとメール出来なかった。大丈夫でいてください。」というメール。返信で無事を伝えると、「良かった。涙でた。」と返ってきた。こちらも涙が出た。たまにしか利用する機会がないが、お世話になっている個人タクシーのドライバーさんからは、「水やオムツ、足りているでしょうか? 必要なものがあったら言って下さい。ご自宅まで届けますから!」というメールをもらった。ガソリン不足でご自身の食い扶持も危うくなっているというのに、ありがたい申し出だった。私をはじめ、このドライバーさんの人柄に惹かれる贔屓客は多いはずなので、他にもたくさんの人に優しいメールを送っているのだと思う。また、ある友人からの「あなたがお子さんに伝えられる、実にたくさんのもののうちで最大のものは、きっと、その濁りのない生命力なのではないかと思います。」という勿体無い言葉には、これからの勇気をもらった。一つひとつのメール、電話、言葉に、深く御礼を申し上げる。また、こちらが落ち着くまでは連絡せず、ただ無事を祈ってくれているという心配りにも、全く同様の御礼を申し上げたい。本当にありがとうございます。たまらなく、嬉しく思っています。

地震の二日後の日曜日は、今年初めてのレース(水泳)に出場するために仲間と福島へ行く予定だった。当然レースには行かず(中止や延期の連絡は未だに無いが、さすがに開催してはいないだろう)、仲間とは数日後に連絡を取り合った。みな無事で本当に良かった。一人(教員)は職場が避難所になり、地震が起きてから家にはほとんど帰らず力仕事をしているという。また一人は行政インフラの仕事で、やはり毎日遅くまで職場にいるらしい。
来月にも大きなレースが予定されているが、会場となる屋内プールは県の総合運動施設の中にあり、隣接する一番大きな体育館は現在遺体安置所になっている。それでも足りず、陸上競技場の屋内施設も安置所になったと昨日知った。おそらく、この大会も中止になるだろう。
スポーツは、社会とともにある。ある人は「そこにスポーツがあるということは、そこに社会があるということだ」と言う。そうだとすると、スポーツがなくなりそうな今は、社会が壊れかけてしまっているのかもしれない。一刻も早く、スポーツを、社会を、取り戻したい。
命あることを感謝し、懸命に生きることを自覚するために、レースに出て泳ぎたい気持ちは強い。でも、諦めることも必要だ。仲間とは電話で、「次にレースに出るときは、お互いの無事を感謝し、リレーを組んで最高の泳ぎをしよう」と約束し合った。所属するクラブの練習再開時期は未定とのことだが、早くまた仲間と練習がしたい。

家の本棚から飛び出した本は、まだ整理できていない。余震の心配もあるし、何らかの落下防止策を考える必要もある。文庫専用の棚は、去年の今頃一日がかりで著者名五十音順に並べたのだが、それもまたやり直しだ。
当たり前のこととはいえ、どの本も全て見覚えと思い出があり、内容が頭に浮かぶことに驚く。ちょっと考えすぎかもしれないが、本棚から飛び出したどの本も「おい、一度きりしか俺を読んでないだろ。もう一回くらい読めよ。いいこと書いてあるぞ」と言っているような気がする。新刊書を読むことも大事なことだし楽しいことだ。でも、本棚にある本をもう一度読むことも、大事なことだし楽しいことのように思う。

昨日水を汲みに並んでいる時、後ろに並んだ元気のいいおばちゃんがこう言っていた。「福島の牛乳が危ないとかいって、どうせ他の福島産のものも東京では売れ残るんでしょ。だったら、東北で採れた農産物や海産物は、もう食べてくれなくていいわよ。東北で作ったものは、東北でみんなで分けて食べましょ。東京なんかにはあげない。その代わり、東京で作っているテレビ番組は一切観ないから。それでも、なーんにも困らないから」。極論ではあるが、賛成したいところもある。東北が産む農産物も海産物も、東北だけではとても消費しきれないだろうし、農家や漁師さんの収入も減ってしまうだろう。ただ、おばちゃんの言いたいことは、東北人の一人としてよくわかるような気がする。
これからは、よりいっそう「地産地消」に努めていこうと思っている。野菜や魚や肉はもちろん、お菓子についてもそうだ。地震後の仙台の街で、多くの店が閉店している中、老舗の銘菓店が店を開けていた。そこで買ったモナカを夜に1個食べることが、この十日間のなかで安らぎの時間になった。大手の菓子メーカーや他の都市の菓子会社のものが悪いわけではないが、地元の銘菓を出張の手土産にしか買わないのはもったいない。家で寛ぐときも、もっと地元の銘菓を味わおうと思う。
地元の魚についても、考えるところがある。仙台は、「魚が美味しい」「旬ごとに様々な種類の魚が味わえる」という評判を得ているが、それは宮城県内の沿岸部にある他の市町の港があってのことである。それらの市町の港は、今回の津波で大打撃を受けた。いつも美味しい魚を仙台に届けてくれていた漁師さんは、もういないかもしれない。
もっと、魚を食べよう。漁師さんたちが採ってきてくれる魚を、新鮮なうちに美味しく食べる環境が、仙台には整っている。港が街にしてくれたことを、街は港に返さなくてはならない。

今回の地震が、自分にとっても大きな出来事であることは間違いない。地震のあった夜、ラジオから絶えず聞こえてくる衝撃的な情報を耳にしながら(ほとんどが信じられなかったが、電気が戻ってからテレビをつけて、その映像に唖然とした)、ふと「これまで多くのものから様々なことを学び、スポーツを通して心身を鍛えてきたのは、こういう時に乗り切れる自分をつくるためだったのかな」と思った。その翌朝からこれまでの十日間、仙台の人々の姿を見て、他の人もみなこの状況をなんとか乗り切ろうと努めていることを感じた。
八百屋の店先で、コインランドリーで、そして市内在住の友人からのメールの文面にて、それぞれの人は何の脈絡やつながりもないはずなのに、なぜか共通して耳にし目にした「がんばっぺ、仙台」という言葉。数多の情報が飛び交うネットの世界でも見ていないし、おそらくtwitterでの「拡散」などもされていないと思うが、現実にこの言葉に私は何度か接している。「がんばろう」という言葉には、苦境から立ち上がる際の勢いのようなものを感じるが、「がんばっぺ」には、まだまだ苦境の最中にありながらも、いつかは必ず立ち上がってみせる、それまでは耐え続けてやるといった粘り強さを感じる。地震の後、尊敬する先輩から「大変だと思うが、たくましく粘り強く乗り切ってください」とのメッセージをもらった。「たくましく粘り強く乗り切る」とは、まさにこの「がんばっぺ、仙台」の精神ではないかと思っている。この精神さえあれば、仙台はこれからも災害に強い街でいられると思う。

質素な食事と、毎日の徒歩通勤、そして早寝早起きで、体はどんどん健康になっている。この体調を活かして仕事に専念しなければ、世間様に申し訳ない。この文章を書くことで、今回の地震からは卒業するつもりだ。もちろん、余震への警戒は続くし、水なしガスなしの生活はまだ続くが、これを自分なりの区切りにしよう。

最後までこの駄文・長文を読んでいただき、心から感謝する。その御礼というわけではないが、私の身勝手な独白でしかない文章をここまで読んでいただいた以上、少しはためになることも提供したい。もういい加減に読み疲れていらっしゃるだろうが、この十日間で役立ったと思われるモノや事を下に記す。ここまで読んでいただいただけで本当に感謝しているが、時間があれば下記にも目を通していただきたい。なお、この文章は一週間くらいですべて削除しようと思っているので、気になることがあったらお手数だがメモしていただくと良いと思う。
先に断っておくが、これから記すことは災害時の全てのケースに当てはまることであるわけがなく、たくさんの瑕疵と矛盾を含んでいる。小さな例を挙げれば、ある電化製品をお勧めしても「電池がなければダメでしょ」と、簡単に指摘を許してしまうものばかりだ。ただ、災害時の全てのケースに当てはまるような対策など、そうそうないと思う。もし、そんな対策を数多く知っているなら、私は大好きな今の仕事を辞め、その道のプロとなって災害に遭った人を少しでも手助けしたいと思う。


<照明器具>
一般には懐中電灯だろうが、一方向しか照らせず、持って歩くにはどうしても片手を塞ぐことになる。同じ電池型の照明ならば、Lumatec の「 Lumatec Everest Reading Light」をお勧めしたい。これはいわゆる「ブックライト」で、暗いところで本を読むための照明器具である。白色LED2燈タイプで、一般的な懐中電灯よりもはるかに明るく鮮やかだ。形状もコンパクトで軽いので、胸ポケットや襟元に差してクリップで止め、両手を空けて歩くことも出来る。スライド式で角度がつけられ、寝かせてもいいし自立もできる。部屋全体を明るくするなら、一方向しか照らせない懐中電灯よりも断然便利である。また、一般的な懐中電灯の電池が、他の電化製品との互換性が良いとは言えない単一や単二であるのに対し、これは単四を使用しておりストックもしやすい。今回の地震で、初期(停電期間中)に最も役に立った一品である。
販売サイトではないが、このライトを紹介しているページがあったので参考までに示しておく。

<暖房(調理)器具>
これは季節にも大きく左右されるが、我が家では石油ストーブが八面六臂の活躍をしてくれた。ガスが止まって備え付けのガスコンロが使用できず、停電により石油ファンヒーターや電子レンジ、オーブントースターも使えない中、暖房としてだけでなく、上に乗せれば調理までできる石油ストーブには本当にお世話になった。電気が戻った現在も主力のままで、汁物の鍋、お湯を沸かすための鉄瓶、魚や野菜のホイル焼きなど、様々なものを乗せて調理している。ただ、いまだに大きめの余震が頻発しているので、グラッと揺れたらすぐに乗せているものを取り、消火ボタンを押す準備を繰り返さなくてはならない。それでも、ファンヒーターやエアコン、電気ストーブにはできない「調理」という役割を果たしてくれるのは大きな魅力だ。夏場の置き場所や、シーズン中でも灯油のポリタンクの置き場所に苦労するということもあるだろうが、アンプラグドで暖房と調理の二つをこなすパフォーマンスはやはり捨てがたい。

<調理器具>
まずはホームベーカリーだ。だいぶ一般的になってきているので、既にお持ちの方も多いだろう。材料やレシピは多種多様であるが、我が家では「小麦粉・砂糖・塩・水・菜種油・ドライイースト」という、タマゴも牛乳もバターも使わないシンプルな材料で焼いている。これが正解だった。特記事項は使用する水の量で、たった170ミリリットルほど必要なだけである。お米を炊くのに必要とする量(米研ぎも含む)と比べると、圧倒的に少なくて済む。材料もすべて日持ちするもので、菜種油は一般のサラダ油でももちろんOK。電気が来て、材料さえあれば、熱々のパンが食べられる。一斤を四等分して妻と二個ずつ分け、私は朝と昼の弁当に、妻も朝と昼に食べた。二食で半分は量的にやや少ないが、そこは我慢しなくてはならない。それなりに腹持ちもするし、焼き上がりの香りは心も満たすと言っていい。余談だが、妻の趣味であるお菓子作りが活き、カメリア粉・全粒粉・オートミールもパン焼きに役立った。何であれ食材が家にあるということは、非常時の救いになる。
次に、電気ポットを挙げたい。我が家にあるのは1リットルの小型ポットだが、とにかく素早くお湯が沸く。お湯を沸かすためだけに卓上コンロのカセットボンベを使うのはもったいないと思っていたので、このポットは毎日大いに活躍している。これもベーカリーと同様、電気が来ていれば使える。シャンプーの見通しが立たない間は、これでお湯を沸かして水を混ぜてぬるま湯にし、自転車用の飲料ボトルに入れてちびちびと頭にかけながら洗おうとも考えていた。床に置いて使えば安定感もあり、余震に警戒しながら石油ストーブや卓上コンロに鉄瓶・やかんをかけるよりも安全で安心だ。
最後はルクエのスチームケース。これも少しずつ一般的になっているようだが、まだ「お馴染み」というところまでは至ってないだろう。しかし、なかなかの実力者である。
乾麺のパスタは備蓄食材に最適だが、いざ茹でるとなるとそれなりの量の水が必要となるし、熱源の燃料もかなり消費する。しかし、このスチームケースがあれば、少量の水で電子レンジを使って調理できる。レシピについては関連本が多く出ているし、ネットにもあふれるほどアップされている。また、温野菜も簡単に作れるし、材料があれば蒸しパンなどの主食系炭水化物にも可能性を広げられる。使用後の水洗いがネックと言えばネックだが、鍋に水を入れて卓上コンロで調理するよりもずっと効率的で節約できると思う。
余談だが、ホームベーカリー・電気ポット・スチームケースの三つは、全て結婚祝いに妻の友人からいただいたものだ。「お祝いは、相手が自ら買わないようなもので、趣味や好みに左右されず、実生活で役立つもの」などとよく言うが、まさに自らは買わず、趣味や好みとは関係ないものの、大いに役立った三つだ。今後誰かにプレゼントをするときには、この三つをまず検討しようと思っている。

<衛生用具>
  水が止まったままなので、家では今も流水で手を洗うことができない。これは意外に大きなストレスでもあり、もちろん衛生上も良くない。薬用のウェットティッシュがあれば一番だが、我が家には無かった。その代用をしたのが、息子のおしり拭きである。これは、ドラッグストアの商品券で大量に買い込んでおいたものだった。息子の誕生前に商品券の使用期限が迫り、先走ってオムツを買うのはサイズや機能面で失敗のリスクが高いと判断し、とりあえずおしり拭きは必要になるだろうと私が買ったものだ。良い買い物をしたと意気揚々と帰宅して妻に見せたが、「おしり拭きは、お湯で湿らせたティッシュでも十分みたいよ」と言われ、やはり先走って失敗したかと落ち込んでいた。しかし、期せずして大活躍してくれた。
成分は非アルコール性で無臭。パッケージには「化粧水」との表示がある。赤ん坊のお尻はもちろん、目や口の周りを拭いてもOKというものなので、まず安心である。大人の手ももちろん拭けるし、朝の洗顔代わりにもずっと使っている。最近、肌が妙にプルプルでツルツルになったのは、この「化粧水」の効果かもしれないと思っている。しっかりと消毒・殺菌したいときはジェル状の消毒液(インフルエンザ対策等で、建物の入口でよく見かけるようになったもの。薬局で家庭用の小サイズも入手できる)を含ませ、手指を洗った。先日、より高機能の薬用ローションを同僚からもらい、それをデイリー・コットンに染み込ませて顔や手を拭くということもできるようになったが、このおしり拭きは惜しまず使えて実に重宝した。

<携帯電話充電器具>
停電中、携帯電話の充電が出来ずに苦しんだ(あるいは、今も苦しんでいる)というケースは、今回の地震ではとても多いだろう。阪神大震災の頃と比べると、携帯電話の普及は比較にならないほどと思われる。私もその一人で、地震の翌日にわずかな残量を使って「無事です。」とツイートしたのがほほ最後となった。その翌日、義父からの救援物資の中に、手動式の携帯電話充電器があった。これは嬉しいと小躍りして受け取ったが、義父が言うには「気休め程度だよ」。実際に使ってみると、見事に気休め程度だった。しばらく回して電源を付けてみても、起動ですべて使い切ってしまうようで、ほとんど機能しない。ただ椅子に座り、ワカサギ釣りのリールのようなハンドルを「ウィーン、ウィーン」と廻していると、なんだか世間様に申し訳ない思いにかられてくる。山ほどある他のやるべきことに時間と労力をあてるべきだと、ウィーンはすぐにやめた。ちなみにそれは、義父が勤めている会社の取引先の何周年かの記念品だそうで、同僚のほぼ全員が持っているはずだと言う。おそらく、その同僚の何人もが今回はじめて使用しただろう。家族からの期待と尊敬の眼差しを浴びながらのウィーンが、まさかの「気休め」で終わるとは…。会社間の取引そのものにも影響が出ることは避けられないだろう。
もし使うなら、電池式の携帯電話充電器がお薦めだ。ウィーンよりも絶対に効率的だろうし、信頼性もある。これは私も近々に買おうと思っている。また、クルマのシガーソケットに差し込んで充電できるものも、多くの人が使っていたようだ。
「電源が切れると、まるで使い物にならない!」と、携帯電話についての苛立ちの声を多く耳にしたが、やはり便利なものであるし、携帯電話のお陰で多くの人がたくさんの「安心」を得たことも事実である。携帯電話が救ったという命も、たぶんあると思う。携帯電話は便利であることに違いない。ただ、便利ではあるが、脆弱なのだ。あらゆる機能を備えながら、そのパワーの源が充電のみというのは何とも心細い。一度の充電による耐久時間がもっと延び、ソーラーパワー等での簡易充電が可能となり、災害時の通信容量の改善(いわゆる「つながらない」という状態の改善)がなされれば、携帯電話の果たす役割もより大きく確実になるはずである。これはぜひ望みたいところだ。

<マンパワー>
この十日間をふり返ると、何よりもまず妻の存在が大きかった。これは謝辞のようなものではなく、妻がいたおかげで様々な作業の分担・軽減・同時進行ができたという実務的なことである。もし一人暮らしだったら、一人では手がまわらないことのあまりの多さに、疲労感と無力感をたっぷりと味わっていたことだろう。今回のような非常時に、協力できる人が近くにいることは実に大きい。家族と同居しているなら家族と、もし一人暮らしなら、いざという時に同居して協力し合えるくらいの友人・知人を持っておくと良いと思う。


つまるところ、モノよりも人である。「災害に強い街とは、災害に強い人が多く住む街である」との持論がある。仙台が災害に強い街かどうかは、災害が起きる前よりも、むしろ災害が起きた後のこれからの仙台人の言動にかかっている。自分もその一人であることを、常に心に刻んで。