20110427
遡ること、数年前の秋。
その日は、宮城県サイクリング協会が主催する「秋の100キロライド」の開催日であった。名取市閖上にある名取市サイクルスポーツセンターを出発して、伊具郡丸森町の不動尊公園で折り返す、全長約100キロの自転車走行イベントである。海沿いにあるサイクルスポーツセンターは仙台エリアの自転車乗りの“聖地”であり、不動尊公園は宮城県南屈指の紅葉スポット。この二つを結ぶ同イベントは、毎年この地の自転車シーズンの終わりを告げるものとなっている。通称「(聖地と不動尊の)巡礼ライド」、または「落ち葉の100キロライド」などと呼ぶ人もいる。自転車の車列を巡礼者に見立てた前者もいいが、ロードレーサーの細いタイヤで、車道脇に寄せられた落ち葉をかさかさと踏んで走ることから付いた後者のほうが、私は気に入っている。このスポーツが常に季節とともにあることを感じさせてくれる、多くの自転車人に愛されているイベントだ。
私はいつも、この手のイベントはなるべく遅くエントリーする。申込み開始直後にエントリーすると、スタート順も前のほうになり、やる気満々の連中に巻き込まれてレースさながらの「マジ走り」になってしまう。それはそれで面白いのだが、まわりの景色よりもコースの先々の起伏のほうに注意がいってしまい、「あの登りでアタックをかけよう」「後半の平坦地まで、脚を残しておこう(「脚を残す」=脚力を温存する)」などと考えているうちにゴールを迎えてしまう。これではせっかくの「落ち葉の100キロライド」を楽しめない。そのため、なるべく遅くエントリーし、前走集団を追わず後続からも煽られず、ゆっくりと走ることにしている。
その日も、スタートは最終組に近かった。細い松並木の道を抜け、左に太平洋を見ながら南下。最終組の中でも位置を後ろにし、先行組を見送って“しんがり”を気取る。気楽な一人旅を楽しもうと、スピードも落とした。
しばらく走ると、両脇に田んぼが広がる橋を渡った先で人がうずくまっている。レースジャージを着ているようだ。たぶん参加者だろう。すぐ脇にロードレーサーが横倒しになっている。もし落車なら怪我が心配だ。近くまで行って声をかけた。
「だいじょうぶですか?」
「…パンクしちまった」
声の感じはだいぶ年上で、かなりのベテランだと感じた。
「予備のチューブ、あります?」
「取り換えてたら、予備のほうもダメになった」
ロードレーサーが練習に出るときは、たいてい予備のチューブと簡易型のエアポンプを携帯している。パンクしたら走れなくなるし、走れないということは帰れないということだ。私も常に、予備の新品チューブを持って出かけるようにしている。その人も予備を持っていたようだが、交換の作業で予備チューブをダメにしてしまったらしい。起こり得ることではあるが、あまりに運がないとしか言いようがない。自分の自転車のメーターを見ると、スタートからまだ8キロしか走っていない。100キロライドを8キロで終えるというのは酷だ。それならばと、自分の予備チューブを提供することにした。
ことわっておくが、これは珍しいことではない。ロードレーサーが予備チューブを携帯するのは、自助のためだけではなく、他のロードレーサー(=仲間)にトラブルが起きたときに助けるためで、ごく当たり前のこととの共通認識がある。少なくとも、私は自転車の師匠からそう教わった。ちなみに、ボトルホルダーにボトルを二つ付けておくのも、一つは自分のため、もう一つはいつでも誰かにあげるためだ。だから、一つは自分の好みのもの(例えばスポーツドリンクやアミノ酸飲料)を入れておき、もう一つは好みを問わない水を入れておく。水はケガをした時に傷口を洗ったり、暑い時には頭や身体にかけることもできる。二つのボトルのうちの一つは、「自分のボトルだが、誰かのボトル」なのだ。チューブにも同じことが言える。
「よかったら、チューブ使ってください」
「…いいのか? 自分のがパンクしたら、どうすんだ?」
「いやぁ、パンクする前に、ササッと100キロ走っちゃいますよ」
サングラス越しなので目の表情はわからないが、相手の口元が緩んだ。
「おっ、なかなか言うなぁ。 それじゃぁ、ありがたくもらうよ」
そう言って手早くチューブを嵌め(本当に、無駄のない見事な仕事ぶりだった)、手早くギアやブレーキのチェックも済ませた。その一連の流れは、美しいほどだった。
「お礼に、行きも帰りも俺が前を引っ張るよ。それでいいだろ?」
「…そうですか。それじゃぁ、せっかくですから」
「前を引っ張る」とは、縦列で走る際に先頭を走るということである。前を走れば風の抵抗も受けるし、コースの誘導やペースメイクもしなくてはいけない。逆に、後ろを走れば風の抵抗は無く、ついて行けばいいだけだ。本格的なロードレースでは、自分のチームのエースの体力を温存させるために、アシストの役割を果たす選手が前を引っ張ることが多い。趣味のファンライドでも、前を引っ張るのは上級者の役目である。
かなりのベテランとは見えるが、年齢差は明らかだ。60代半ばくらいというところか。今はそう言ってくれているが、いずれは自分が引っ張ることになるだろう。それでも、せっかくのご縁だから一緒に走ってみよう。意外と面白いかもしれない。そう考え、「よろしくお願いします」と言って後ろについた。前を行く色褪せたジャージの背中には「TAKATA」とプリントしてある。チーム名だろうか。名前も訊かないまま走り始めてしまったので、とりあえず自分の中では「高田さん」と呼ぶことにした。ベテランの走りを後ろから見て勉強させてもらおうと、のんびりした気持ちでペダルを回し始めた。
高田さんは、怪物だった。とにかく速い。軽めのギアを高速で回転させ、平地ではどんどん加速する。コーナーリングも攻めの一辺倒だ。小さい身体を折りたたみ、低い姿勢で走るので、身体が大きいこちらとしてはまったく風よけにならない。ペースもイメージしていたものより5割増しくらいで、このままだと復路の脚が少し心配になるほどだ。よく見てみれば、オールドブランドの年季の入ったシューズにグサリと刺さる高田さんの脚は、タダモノではない。焼けた肌が筋肉で押し上げられ、血管も浮き出ている。完全にロードレーサーの脚だ。エラい人と一緒に走るはめになったもんだと、のんびりを返上して「TAKATA」の背中を追うことにした。
それでも、コースの中盤にある峠越えの登りには自信があった。いつも登りの練習をしていたし、比較的得意な斜度だ。つづら折りではなく、直線の一気登りというのも、リズムに乗ってぐいぐいと登っていける。ここくらい前を引っ張らないと、さすがに格好が悪い。先を行く高田さんがペースを上げも下げもしないので、黙って追い抜いて前に出た。自分のリズムで加速し、ペースを作る。後ろから特に反応はない。耳をすますと、息遣いも聞こえないし、タイヤの音もしない。「あれ? もしかして、置いてきちゃったかな」と後ろを振り向くと、口も開かず(=息切れすらせず)に高田さんがピッタリとついてきている。ちょっとうぬぼれていたようだ。高田さんは、こちらのペースに完璧に合わせて走っていたのだ。そして、「おい、アタックじゃなかったのか? 先に行くぞ」と、あっという間に置いていかれてしまった。20代のころに師匠につけてもらった練習を含め、登りであんなにきれいに置いていかれたのは初めてだった。
予定よりもだいぶ早く折り返し地点に到着。モミジを見ながらコンビニのおにぎりを食べるつもりだったのだが、高田さんが許してくれない。「こいつのほうが、すぐに力になるぞ」と、ゼリー飲料を渡された。おにぎりを諦め、それをありがたくいただく。
折り返し地点の受付には、いつもお世話になっているプロショップのI店長さんがいた。私と高田さんが並んでゼリー飲料を吸っているのを見て、「あれ! 珍しい顔合わせだなぁ。この二人が並んでるとは!」とおどける。店長さんの脇に行き、耳元で「あの人、何者なんですか?」と小声で訊ねると、「あの人はジョーさん。生きる伝説だよ。いろんなレースで、シニアクラスのチャンピオンになっている人」と言う。やはりタダモノではなった。「ジョー」というのは本名か、それとも愛称か。そうそう簡単には崩れそうにない走り=精神力が、どこか「矢吹丈」を思わせる気もする。店長と私のそんな会話が耳に入ったのか、高田さんは「おい、100キロをササッと走るんじゃなかったのか?」と、もう復路に出る準備を済ませている。こちらも慌てて準備して、後を追った。
復路もずっと、前を引いてもらった。ただ、往路よりもスピードは緩く、高田さんと並走する時間が長かった。当然、会話もある。私が訊ねたことと言えば、いま振り返るとつまらないことばかりだった。でも、それに対する高田さんの答えは示唆に富んでいた。
私「ボトルには、いつも何を入れて走ってるんですか?」
高「麦茶。いろんなドリンクがあるらしいけど、苦しい時は好きなものを飲むのが一番だ」
私「普段から、身体には気を使ってるんですか?」
高「若い頃は、何を食うかが大切だ。
でも齢をとったら、何を食わないかが大切になる」
高田さんから訊かれたことも、いくつか覚えている。
「はじめての自転車は、いくつの時だった?」
「ロードレーサーには、いくつまで乗るつもりだ?」
「他に何かスポーツはやってるのか?」
三つの目の質問の意図はキビシかった。自転車の他に水泳をやっていると答えると、
「そうか、水泳か。
いいカラダをしている割には、自転車の乗り方がヘタクソだ。
自転車で鍛えているなら、もっと乗り方が上手いはずだ。
たぶん、他のスポーツをやっているんだろうと思った」
苦笑いするしかなかった。
ゴールに到着後、高田さんは、受付のスタッフや先に着いていた知り合い、さらには犬を抱いた奥さんに向かって、スタートしてすぐパンクしたこと、予備のチューブもダメになったことを笑いながら繰り返し説明し、私の手を引っ張って「この人に助けてもらった」「この人が新しいチューブをくれた」と言い回った 。そして私に「本当に助かった。それから、一緒に走って楽しかった。どうもありがとう」と言ってくれた。私ももちろん、お礼を言った。どうしても名前を教えてくれと言われたが、なんだか気恥ずかしくて、「名乗るほどの者ではないですから」と言い、「いずれまた、一緒に走りましょう」と添えた。高田さんは、「そうだな、お互いに自転車に乗っていれば、またどこかの道で会えるよな」と、はじめてサングラスを外して握手を求めてきた。私もサングラスを外し、手を握り返した。
その年の大みそかのことだ。心当たりのない荷物が私宛てに届いた。両手で抱えるほどの大きさの発泡スチロール箱。差出人の名前はまるで知らない。伝票の荷品欄には「ナマモノ」とある。開けてみると、殻付きの立派な牡蠣がぎっしりと詰まっていた。プクプクと泡を吹く、活きのいいものばかりだ。何事かと思ったが、封筒も入っていない。蓋の裏側に、何か入ったレジ袋が無造作にガムテープで貼りつけてあるのに気づき、それをはがして中を見ると、新品の自転車チューブと一筆箋が一枚出てきた。「秋に借りたチューブをお返しします。あの時はありがとう」と書いてあった。差出人は、「岩手県陸前高田市○○○ 佐藤上」。
「上、ジョー…、さん!?」
「秋に借りたチューブ」と言えば、それしか考えられなかった。「TAKATA」は陸前高田市の「高田」で、「ジョーさん」とは本名の「上さん」だった。曖昧のままにして忘れていたことが、一気に解消した。それにしても、牡蠣のことは何も書かず、ただ「チューブをお返しします」とは…。
年明け早々にプロショップのI店長を訪ね、このことを話した。佐藤上さんは陸前高田市の駅前で自転車店を営んでおり、「チームTAKATA」というロードレースチームに所属する、御大クラスのレーサーだそうだ。100キロライドのあとにIさんの店に、「あの時一緒に走った人(=私)の名前と住所を教えてほしい。折り返し地点で自分と一緒にいた人だ」と上さんから電話があったそうだ。訳を訊くと「チューブを借りっぱなしだから、返さなきゃならない」と言う。I店長はすぐに私とわかり、そういう理由ならば教えても良いかと思ったそうだが、個人情報云々の面倒な決まりもあるので協会事務局に電話してくれと上さんに言った。その後、上さんは事務局(と言っても、個人の家だ)に電話し、当日の顛末と私がその日に自転車に付けていた参加ゼッケン番号(いつの間に覚えていたのか!?)を言って、私の名前と住所を聞き出したらしい。
牡蠣の礼状を兼ねた年賀状を出して以来、年賀状だけのやり取りが続いた。私からは毎年「いつかまた一緒に走りましょう」で、上さんからは「あの時はありがとう」。それだけの言葉を、毎年の年初めに交わし合ってきた。
3月11日、陸前高田市を大津波が襲った。佐藤上さんは遺体で見つかった。
上さんの安否はI店長が知っているだろうと思ってはいたが、意気地無しの私がそれを確かめにI店長の店に行くには、まる一カ月必要だった。I店長は私を見てすぐ、「ジョーさん、ダメだったよ」と言った。「まぁ、ジョーさんのことだから、『おい、はやく逃げろ!』なんて自転車に乗って町内を言い回って、最後まで悠々と自転車乗っていて波に飲まれたんじゃないかって、みんなそう言ってるよ」とも。その時ふと、「ロードレーサーには、いくつまで乗るつもりだ?」という上さんの言葉を思い出した。
上さん、あなたは死ぬまで、ロードレーサーに乗っていたのですか?
佐藤上さんは、今回の震災で命を落とした多くの方々のうち、ただ一人私が「知人」と言える人である。顔の広い方であったはずだから、私ごときとの由縁は取るに足らないものかもしれない。ましてや、笑いながら「ヘタクソ」と言われたほどだ。自転車乗りが仲間を弔うときにするように、自転車に乗って上さんの追悼ライドをすることは、恥ずかしくてできない。だから、四十九日を前に、自転車に乗るのと同じくらい好きな文章を書くことで、 佐藤上さんを弔いたい。
佐藤上さん。
何よりも、また一緒に走る約束を果たせないことが残念です。
でも、約束してくれてありがとうございました。
いただいた牡蠣は全部食べましたが、チューブはまだ新品のままです。
もしかして、お店の売り物だったんでしょうか? 値札がついていました。
そのお店も、すべて津波に流されたと聞きました。
このチューブは、お店の、そして上さんの形見だと思ってとっておきます。
決して忘れることのない思い出のものを、ありがとうございました。
あの秋の日に一緒に走った道の一部は、今は変わり果てています。
それでも、いつか必ず、またロードレーサーであの道を走る日が来ることを信じています。
自分がいくつまでロードレーサーに乗れるか、
あの時と同じく、ぜんぜん予想できず答えられません。
でも、少しでも上手く乗れるように、ずっと練習します。
そしていつか、そちらの世界で約束を果たすことができたら嬉しいです。
その時はまた、前を引っ張って下さい。
さようなら、佐藤上さん。私はあなたを忘れません。