2012年3月22日木曜日

20120322


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忘れるということは、記憶を無くすことではなく、記憶を箱に入れて蓋を閉めることなのかもしれない。その箱は常に心の中を漂い、何かの拍子に蓋が開いて記憶がこぼれ出てくる。そんな「記憶との再会」が、殊に温かな再会が、人生には何度か用意されている。この作品を読んで、そう信じたくなった。


 ある小説の書評の一節である。ここで書かれている「記憶が入っているという箱」は私の中にもあり、今日、その蓋を「何かの拍子に」ではなく、意志を持って開けてみた。 

 このブログをはじめて、ちょうど一年になる。「東北地方太平洋沖地震から約十日が過ぎた」と書いてから、一年が経った。短かったという印象は無い。むしろ、ずいぶん時間が経っているような、私が認識している一年の間隔(感覚)よりも、ずいぶん長かったような気がする。
 まず、当時頂戴したたくさんのご支援や励ましにあらためて感謝したい。お寄せいただいた多くの言葉やモノは、私をはじめ家族や知人の心を温めた。本当にありがたかった。心より御礼申し上げます。そのことをまず、言わなくてはならない。
 これについては、一年前の文章で、自分がきちんと御礼を言っているかどうか少し不安になった。読んでみると、他人の言葉ではなく自分の言葉で書いていたので、少し安心した。このとおり、一年前の記憶というのももはや曖昧である。一年後の20130322に、今日書いたことをどれだけ覚えていられるかも、まるで自信が持てない。
 だから今日は、「記憶」というものを少し考えてみた。もちろん、十日ほど前の新聞紙面にあふれていた「忘れない」「忘れたくない」「忘れられない」「忘れないで」「忘れてはいけない」なども、少しだけ視野に入れた。


 記憶には鮮度がある。そして、出来事が記憶になった瞬間から、その腐敗が始まる。これは仕方のないことだ。生きていると、目の前で次々に出来事が起こる。目の前のことだけではなく、未来に起きる出来事のことも考えねばならないだろうし、未来の出来事を自ら起こす準備もしなくてはならない。時間が不可逆に積み重なっていく以上、出来事はすぐに過去のことになり、記憶になる。そしておそらく、時間の積み重なりが記憶を腐敗させていく。
 私の一年前の記憶も、まったく残念なことに腐敗していた。缶ビールのくだりなどは、パラグラフをまるごと忘れていた。でも、先日行った居酒屋の入口にあった立て看板、あるビール会社の銘柄が書かれたその立て看板を見た時、それが贔屓の銘柄ではないのに心の中に動きを感じた。あの一瞬、それはもしかしたら、立て看板を見たことによって箱の蓋が開き、缶ビールを流しに捨てたあの記憶がこぼれ出てきていたのかもしれない。

 記憶の腐敗を防ごうとする行為が、いくつかある。たとえば記録だ。写真や映像などがその例になるのだろうか。先日、主に一年前のことを題材にした映像作品をいくつか観る機会があった。写真をつなげたスライドショウのようなものもあり、「あぁ、これは記録なんだろうな」と思いながら観ていた。興味がわいたのは、制作者がその記録をもって、出来事をどう記憶しているのかということだった。幸運なことに、制作者に対して質問できる機会があったので楽しみにしていたら、同席者(ある友人)が先んじて似た質問をした。「なるほど、そういう訊き方があるのか」と感心した記憶はあるが、肝心の回答がどれもいまは記憶に無い。その質問を越えるほど感心するような回答は、 たぶん得られなかったのだと思う。もし制作者が、記録することで記憶が腐敗しないと考えているとしたら、その根拠を言葉で説明してもらいたいと期待していた。その期待は萎むことになったが、これは制作者に問題があるのではなく、余計な期待を膨らませた私に問題があるのだろう。ただ、その友人の問いが、私にとっては実に鋭く、それに対しての回答はそのまま私の疑問に対する答えになるような気がしたので、その場で鼓動が少し速くなった。冷静になって考えてみると、それは回答への期待ではなく、その友人への勝手な感謝なのかもしれない。「あぁ、この人と友人でよかった」と思った。鼓動が速くなった後に、目頭が熱くなるという経験をはじめてした。

 話を戻す。これは私の至らない部分であり、想像力の足りなさが原因であることは重々承知なのだが、もし記録が記憶の腐敗を防ぐのであれば、それを言葉でなんとか理解したいと願っている。できれば、自分がこれまで見聞きしたような、ある意味でお決まりとなっているような言い回しではなく、はじめて見聞きするような整然とした言葉をもって理解したい。一方で、もし記録と記憶はまったく無関係にあり、記録が記憶の腐敗を防ぐことなど無いという考え方があるのなら、それもじっくり考えてみたい。いまの私は、前者のほうにはまったく足を踏み込めず、後者のほうに無意識に片足を突っ込んでいるような位置に立っている。無意識ゆえに(と言ってしまうとパラドックスに陥るが)、後者も言葉 での説明にはま だ遠い。そんな中で、もう少し考えてみる。

 思うに、記憶は育むものである。ほうっておけば腐敗が進むので、手をかけて育まなければならない。思い切って言えば、命を与えて生かさなければならないものだ。命を与えられた記憶は、我々がそうであるように、他者によって生かされていく。
 たとえば、庭に咲いた草の花。時間の積み重なりの一瞬を切り取るかのように、美しく咲いたその日に茎から上を切ってしまえば、手には一瞬を切り取られた花が残る。これはその花の、咲いたその日、ある一瞬の「記録」だろう。花は、切った瞬間からたちまち腐敗が始まる。もしその花を一輪挿しに挿せば、花の命は少し保たれ、命は延びる。かたちは変われども、その花が切られた一瞬を思い出すための手がかりが残される。「あのときはもっと花弁が閉じていた」「あのときよりも下を向くようになってきた」などと、記憶をたどり、振り返る言葉も出て来よう。しかし、不可逆な腐敗は進む。
 もし庭に咲くままにしておけば、切るよりも、それを一輪挿しに挿すよりも、命は長くなる。愛でる時間も長くなるだろう。「あのときよりも花の色が濃くなった、薄くなった」と、その花の姿を目にしながら、咲いたあの日の記憶が生きる。やがて花の季節を終え、花弁が地に落ちれば、それを拍子にまた箱の蓋が開き、咲いたあの日の記憶がこぼれ出てくる。こうして記憶は育まれ、生かされていくような気がする。

 毎夏、あさがおを育てている。もう10年になるかも知れない。きっかけは、気まぐれにタネを買ったことだ。きっかけは気まぐれだったが、青い花が咲くタネを買ったのには理由があった。それ以来、毎年タネをとって、毎年蒔いている。タネをとった後のツルもカラカラに乾燥するまでとっておき、冬のある日にハサミで細かく切って、夏にあさがおを咲かせた土に混ぜる。タネが代々の継承物であるように、ツルにも次代の養分になってもらう。たぶん、専門的に見れば、タネの生命力のようなものも代々弱ってきているのかもしれない。ツルを土に混ぜるよりも、養分が豊富な新鮮な土と丸々入れ替えたほうが良いのだろう(半分程度の入れ替えはしたが、丸々替えたことはまだ無い)。それでも、花は毎夏たくさん咲く。そして、タネ もたっぷり作る。花の色はだいぶ薄く、空色に近くなったが、その空色の中にもとどまる青を見れば、はじめてタネを買ったあの日、青い花のタネを選んだ理由を思い出す。記憶は腐敗していない。

 記憶が腐敗しないように、記憶を育む。それは即ち、「変わり継続すること」ではないかと思う。10年前は、あさがおを育てることなど考えもしなかったが、ある日タネを買い(変わり)、ずっと育てる(継続する)ことで、青い色を選んだ記憶はいまも腐らずにいる。なぜなら、記憶と出会う機会が多いからだ。土を作り、タネを一晩水につけ、割り箸の先で土に穴をあけて蒔く。そして水をやり、芽を、双葉を、本葉を喜び、支柱を立て、…という一つひとつの行為がすべて、青い色の記憶につながっていく。
 もちろん、はじめての夏に咲いた青い色の花を写真に収め、その後育てることはせず、時折その写真を眺めてみるという記憶のとどめ方もあろう。しかし、自分の場合は、変わり継続するほうが記憶の鮮度を保てるような気がする。いや、保つのではなく、記憶が命を得ているような気がするのだ。

 一年前は、備蓄と新たに手に入るわずかな食材を、石油ストーブ駆使して妻がなんとか三食を作ってくれていた。汲み置きの水も、「実用分」と「安心分」に分け、実用分の減りを給水車や隣の地区の水汲み場に並んでその日ごとに補った。その記憶は、空っぽになった冷蔵庫の写真や、毎日リュックに入れて背負った空のペットボトルの写真では命を得られない。その記憶を、自分の中で長く生かしてやることが出来ないと感じている。  
 この一年、正確に言えば20110411から、毎月11日を「備蓄の日」とした。長期保存が可能な食料や水、コンセントや元栓を必要としないエネルギー(乾電池や卓上コンロ用ガスボンベ)、またはウェットティッシュやラップなどの非常時必需品を購入し続けてきた。目標は、「1.5の備蓄」。あの時と同じような状況に陥ったとき、家族が数週間困らない程度の備蓄が「1」。それに加えて安心分の「0.2」。そして、だれかの支えにまわせる分の「0.3」。足して1.5だ。一年前は、食材や水に限らず買い占めが問題になっていたが、いまは何の非難も受けない。1.5の備蓄は、いまなら出来ることだ。
 一年前、ある家から大量の応援物資をいただいた。こんなにもらって大丈夫かと思い遠慮すると、その家では台所にある床下収納庫を普段から備蓄食材で満たしていると聞いて驚いた。消費期限を確かめながら日常の食材としても使い、使った分は買い足しているという。食材備蓄の必要性は常日頃からよく言われていたが、それを徹底的に実践している人が身近にいたことが衝撃だった。たぶん、ここで私は変わったのだと思う。そして備蓄を始めた。備蓄はまだまだ継続させるつもりだ。変わり継続することで、記憶に命を与え、なるべく長く生かそうと思っている。
 毎月10日の前には、備蓄に必要なものを妻に訊ね、消費期限をチェックし、仕事帰りなどに買い物に行く。それら一つひとつは私にとって、「何かの拍子に」ではなく、意志を持って箱の蓋を開け、記憶と再会する機会になっている。

 記憶を腐らせないためには、記憶を育まなければならない。そのためには、変わることと継続すること。考えてみると、あれ以来、自分の中では「読書」も変わった。どう変わったのかは上手く言えないが、変化の質と方向だけはきちんと捉えていると思う。1.5の備蓄よりも、自分としてはこのことのほうがずっと大きい。
 多くの人がこれまで語ってきているように、読書は想像力と理解力を養う。とくに想像力については、本を一冊読み重ねるごとに、たしかな手応えとしてそれを感じる。
 想像力を考えるとき、愛読書の一節がいつも頭に浮かぶ。「二十一世紀に生きる君たちへ」(『十六の話』/中公文庫)のなかで司馬遼太郎は、助け合う気持ちや行動のもとのもとは「いたわり」という感情であり、それは「他人の痛みを感じること」とも「やさしさ」とも言い替えられると語る。私はこの「他人の痛みを感じること」とは、いくら養っても過ぎることの無い、想像力の一つであると自戒している。さらに司馬は、「いたわり」「他人の痛みを感じること」「やさしさ」は本能ではないので、訓練をしてそれを身につけなければならないと説く。そして続ける。

  その訓練とは、簡単なことである。
  例えば、友達が転ぶ。
  ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、
  そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。

 読書においても、この訓練を置き換えて継続させることができそうだ。想像力も、絶えず育まなくてはならない。そうすればいつか、それこそ「何かの拍子に」、当時の自分の思いや記憶と再会できるかもしれない。それが温かな再会であるかどうかはさておき、記憶を腐敗させないための一手にもなろう。そして、「何かの拍子に」にはあまり頼らず、自ら箱の蓋を開け、その中にある記憶を育む。これの継続だ。いまこの一瞬も、その継続の最中であること、次の一瞬もまた継続の中にあることを、忘れてはいけないと思っている。

 いま考えられる「記憶」について、あるいは想像力については、こんなところである。


 ちなみに冒頭に引いた書評の一節は、かつて私が書いたものだ。これもまったく残念なことに、自分で書いた文章というのも時が重なれば忘れてしまう。急に思い出したのは、先日ある友人と話をしているときに、「周りから『忘れない』『忘れてはいけない』と言われている時、その当事者が『いえ、忘れてください』と言えるタイミングってあるんでしょうかね?」と訊ねられたことがきっかけだった。まるで鋭利な鉤針に捕えられ、深い海から強く長い糸で引き上げられるように、「記憶が入っているという箱」の一文が頭のなかに現れた。これは「何かの拍子に」の例にあてはまる記憶との再会だろう。

 おそらく多くの人が気づいているだろうが、この友人とは前述の友人と同一人物である。この友人がいなければ、たぶんこの文章を書くことはなかった。この友人に深謝する。

2012年1月1日日曜日

20120101

20120101

恭賀新年

2001年12月3日に、下のような文章を書いた。
↓(一部改訂)



ジョージ・ハリスン死去の報は、会社のPCの画面で知った。ニュースサイトの一文、ありふれたフォントの文字で、「さん」付けされたジョージは死んでいた。危篤状態であることは知っていた。実はここ数日、その報を探すようにニュースサイトを訪れていた。それでも、ショックは大きかった。時々刻々更新されるサイトの即時性が、なぜか怖く感じた。その報を見ても、ジョージの身体がまだ温かいかのような錯覚さえ起こした。今ならまだ、頬が赤いままのではないかと。

会社を出て、旧いビルの中にある中古レコード屋へ行った。中古レコード屋とはいえ、集まる客の目的は入手困難な海賊版だ。雑音ばかりでまともに聞けないような海賊版レコードが、この店には大量にある。自分も10年前は毎週のように通い、大枚をはたいてライヴ録音やセカンドトラックのレコードを買い、喜んで聴いていた。そんな年頃だった。
10年前と同じように階段を登り、店に入って驚いたのは、そこにある空気が10年前と全く変わっていなかったことだった。そしてもっと驚いたのは、店の人が僕のことを覚えていたことだった。「あ! 水泳部の部長・・・じゃない!?」店の人の記憶も10年前と同じだった。空いた10年間を話せば長くなるし、何から話せばよいか分からない。「仙台で働いてます」と
だけ言うと、彼はニッコリと笑い「そう。ゆっくり見てって」と言ってくれた。
買うものは決まっていた。当時は近寄りもしなかった一般中古の棚。「ALL THINGS MUST PASS」。ジョージ・ハリスン渾身のファースト・ソロ・アルバムだ。レコードでは何回も聴いたアルバムだが、CDは持っていなかった。その日にどうしても必要なアルバムだった。レジに持っていくと、

店員「あれ? もしかして・・・」
私「ええ、さっき知りました・・・」
店員「そう・・・。今日は、聴くんだ」
私「そのつもりで。うん・・・」

少し割り引いた金額で、10年ぶりに僕にCDを売った長髪の店員は、こう付け加えた。

「あの、一緒に来てた背の高い、ソフトボール部のエース、どうしてる?」

二枚組CDの厚みを手に確かめていた僕は、その問いには答えられなかった。


帰りのバスに揺られながら、「ソフトボール部のエース」の顔が頭から離れなかった。元気だろうか? いまは何をしているのだろうか? ・・・もしかして、今日は、僕と同じことを考えているのではないか・・・と。

彼と出会ったのは中学の時だった。高校受験を控えた秋に隣りのクラスに転向してきた彼は、背の高いことが特徴の奴だった。そしてもう一つ、彼は変わった奴だった。同じクラスに友達も作らないまま僕のクラスにやってきて、突然、

「ねぇ、君、ビートルズ好きなんだって?」
「あぁ、そうだけど」
「じゃあさ、今日ウチに来ない? 一緒にレコードを聴こうよ」

変わった奴だと思いながら、放課後に彼の家に行った。夜勤明けだという彼の父親が迎えてくれ、おまけに蕎麦まで茹でてくれた。二人で蕎麦をすすりながらビートルズを聴き、とんでもなく上手い彼のギターに合わせて歌った。途中から、パジャマ姿の父親もコーラスに参加した。もう、一番の友だちになっていた。

彼はビートルズのどの曲を聴いても、ジョージ・ハリスンの凄さについて語った。僕がジョン・レノンの詞に傾倒した聴き方をしているのとは対照的だった。


「ジョージがいたから、ジョンとポールは好きにやれたんだ。あの天才二人をサポートしたジョージは凄い」
「ジョージのリードギターは、キースが言うように下手なんかじゃないよ。ジョンやポールの歌声より前に出ないように、控えめに弾いているだけさ」
「クラプトンに自分の奥さんを取られても、その後も二人と仲良く付き合ったんだ。信じられないくらい心の広い男だよ」


彼のジョージ評は、その後、一緒の高校に進み、彼がソフトボール部のエース、僕が水泳部の部長になる頃までも続いた。そして、彼の影響なのだろうか、僕は初めてのエレキギターとして、ジョージが使っていたものと同じタイプを選んで買った。

彼との付き合いが途絶えたのは、高校を卒業し、違う予備校に通い始めた頃からだった。「いつでも会えるさ」という安心感は、いま考えればあまりに脆かった。途中一度だけ、彼が僕の家に来たことがあった。同居していた僕の祖母が死んだことを道端の張り紙で知り、線香を一本あげて帰ったという。ちょうど告別式で寺へ行っていた僕は、留守番をお願いしていた近所のおばさんからそのことを知った。「背の高いお友達が、線香を一本あげて帰っていった。『合格したら、また会おう』とだけ伝えて欲しいと言っていた」と。その約束を楽しみに勉強に励み、雪解けの時季に僕は吉報を手にした。伝え聞きで彼の吉報も知り、東京に旅立つ準備のなか、彼の家を訪ねた。合格するまでは一度も手にしないと決めていた、ジョージと同じギターを持って。

出来過ぎた話かもしれないが、彼の家には別の人が住んでいた。当然その人も、彼の家族の消息は知らなかった。彼と同じ予備校に通った友人に聞いても、入学したという大学の名前すら2,3あって確かではなかった。むしろ、彼の行方を訊ねられるのは僕のほうだった。彼は、間違いなく僕の親友だったからだ。もう、遅かった。帰省の度に彼の消息を追ったが、時間が過ぎ、辿る糸が細くなっていくだけだった。


長髪の店員が割り引いて売ってくれた「ALL THINGS MUST PASS」を聴きながら考えていたのは、彼がなぜ黙っていなくなったのかではなかった。そんなことは、今となってはどうでもいいのだ。「合格したら、また会おう」という約束だって、あまりに時間が経ち過ぎている。一番気になっていたのは、守られるべきもう一つの約束だ。
ジョン・レノンの死の後にビートルズを知った我々は、「遅れてきたビートルマニア」といわれるファン層だ。そんな我々がはじめて迎えた、ビートルズの死。

「次にビートルズのメンバーが死んだ時には、必ず一緒にレコードを聴こう」

僕と彼は、たしかにそう約束した。場所? 手段? その時の連絡先? そんなことまで決めてはいなかった。携帯電話、Eメール、BBS・・・etc、あの時から飛躍的に進歩した情報伝達技術さえ、いま、まるで無力だ。
しかし、なぜか確信が持てる。ジョージが死んだ夜、彼もこの約束を思い出していたのではないかと。そして僕と同じように「ALL THINGS MUST PASS」を聞いていたのではないかと・・・。彼は、そういう男だ。

U・Mよ、約束は守られただろうか? 僕はジョージのギターを、君を思い出しながら聴いた。久しぶりに聴いた「ALL THINGS MUST PASS」は、切ないながらも力強いアルバムだった。君が昔言った「ロックの最高傑作」に違わない内容のアルバムだと、はじめて理解した気がする。君は正しかった。

4分の2になってしまったビートルズ。あと二回、こんな同じ思いをするのだろうか? いま、もう一度君を探そうかと思っている。U、また会おうじゃないか。一緒にビートルズを聴こう。何かの偶然で、この文章を読んでくれていることを切に願う。いつかまた必ず会えるとは思うが、連絡してくれれば、ありがたい。













今朝、Uから年賀状が届いた。
彼が祖母にあげてくれた一本の線香以来の音信だ。

今年が良い年にならないわけがない。



2011年12月30日金曜日

20111230

20111230

先日の、ある友人とのメール(携帯電話)のやり取り。
東京出張の翌日、帰る前に会えたら会おうと約束をしていた。
あいにく都合がつかず、私から断りを入れることになった。

私:「今回は会えそうにないので、また今度の機会にましょう」
友:「わかりました。残念ですが、(私)さんにはいつでも会える安心感があります(笑)」

普段から交わす、珍しくもないやり取り。
ただ、ちょっと考えるところがあり、余計な一文を返した。

私:「嬉しいことを言ってくれてありがとう。
でも、3月11日以降では、そんな安心感の多くが失われてしまったよね。
安心感とは、なんとも脆いものか…」

送信した後、わざわざそんなことを書かなくてもと少し後悔したが、
彼なら誤解なく受け止めてくれるだろうと考えた。
今年痛切に思い知らされた「脆さ」について、
少なくとも共有できる友人の一人と信じているからだ。



26人。
私の母の友人で、宮城県南三陸町に住むHさんは、
3月11日の津波被害によって親戚・友人を亡くした。
皆、普段から付き合いのある身近な人々だ。
その数、26人。

想像できない。
想像しようとして、身近な親戚・知人の顔を思い浮かべ、
彼ら彼女らを亡くしたことを考えようとして慌ててやめる。
大切な人を一人ひとり頭の中で消していくなんて、
いったい何をしているのか、何を考えているのか、と。
そして、「想像できない」とはこういうことなのかと、気づく。

私には想像すらできないことが、Hさんには起きた。
その違いは何かと考える。
考えつくどの答えにもある「脆さ」に、愕然とする。



部屋が冷えたので、灯油ストーブをつける。
この灯油は、昨日巡回販売で買ったものだ。
灯油の巡回販売がやって来る、当たり前。
しかし、巡回車にガソリンが入っていなければ、やって来ない。
3月11日以前であれば、
「売る油があっても、それを運ぶ油がないなんて」
と笑い話にもなりそうだが、
そんなことが3月11日以後には実際に起きた。
あの頃、徒歩通勤の途中に見たガラガラの車道。
そして、まるで黙ってその場にしゃがんでいるような、
ガソリンが(十分には)入っていないクルマの数々。
そして暖まり始めた部屋と、灯油ストーブの音。
なんと「脆さ」に囲まれた生活か。




「絆」という字の呆れるほどの輝かしさに消されてしまいそうだが、
自分にとっての今年の一字は「脆」のように思う。
脆さを知り、脆さに泣き、
今も、脆さに怯えている。

「脆」には「もろい。こわれやすい。よわい」の他に、
「やわらかい」、さらに「かるい。かるがるしい」の意もあるらしい。
(『新漢語林』初版第4刷 鎌田正/米山寅太郎 大修館書店)
「かるい。かるがるしい」の意からも、
3月11日以降の様々な事象(とくに為政や引責の場面で)が思い起こされる。
かるがるしさを知り、かるがるしさに泣き、
今も、かるがるしさに怯えている。



「脆」を克服すること。
東日本大震災があった今年を締める時、
自分に言い聞かせるとしたらこれだろう。
3月11日以降は、「脆」にやられた一年だった。
ただ、その「脆」は3月11日以降に顕在化しただけで、
普段から「脆」は「脆」のまま身の回りにある。
この「脆」をいかに「脆」でないようにするか。
わずかばかりでもいい、コツコツと「脆」を克服していきたい。
それは想像以上に困難なことかもしれないが、
あんな酷いことが身近で起きて、何もしないわけになんかいかない。
なんとかして、「脆」を克服していこうと思う。

「脆」の克服にどんな具体策があるのか、まだわからない。
簡単なことも多そうだが、相当難しいことも多そうだ。
でも、やらずにはいられない。
それが今の正直な気持ちだ。




「安心感とは、なんとも脆いものか…」
と送ったメールには、しばらく返信がなかった。
やはり余計なことをしたと反省し、
言い訳がましいメールを打とうとしたその時、返信が来た。

「たしかにあれ以降、会える時に会うという意識が強くなりました。
でも、(私)さんとは、そういう意味でも、何があっても、
お互いに生き延びてまたお会いできる気がします(笑)。
出張、お疲れさまでした!」

厄介な問いに対して、
こんなに気持ちの良い返し方があるとは。
本当に良い友人を持ったものだ。
そしてふと思う。
この返信の中に、「脆」の克服の大きなヒントがあるのではないかと。

2011年9月11日日曜日

20110911

20110911

 おそらく、多くの人によって様々なことが書かれたであろう昨日と今日、普段と変わらない土日を過ごしている。妻と息子と遊び、近所の商店に買い物に行き、クラブで仲間とともに泳ぎ、6時間半寝て、起きて本を読み、妻と息子と遊び、自慢のカレーを作り、また本を読んでいる。

 本当は閖上に行こうと考えていた。今回の津波被災地の中で、以前にもっとも多く通った地だ。そこにあった自転車道と海浜プールは、子どもの頃から両親に連れて行ってもらい、ロードレーサーに乗るようになってからは格好の練習場所となり、いくつかの大会で何枚かの賞状を手にした場所である。この夏愛用した水筒は、去年の夏に仲間と出たリレートライアスロンで手にした優勝賞品だ。三人で、まるでワールドカップの優勝トロフィーのごとくこの水筒を頭上にかざし、おどけながら喜んだのもこの施設の正面階段だった。佐藤上さんと出会い、別れたのも、この場所だ。

 正式名称「名取サイクルスポーツセンター」は今年311日の津波被害を受け、現在「閉館中」もしくは「解散」したと聞いている。その措置も、航空写真で閖上の被害の大きさを見れば当然だと感じる。
 センターの惨状を見に行くべきかどうか。自分にとって大切な場所であることは間違いない。それならば、やはり見に行くべきなのではないのか。そんな自問自答を繰り返していた。

 今日に至るまで、そして今日も閖上に行かない理由。
 それは、閖上をこの目で見る自信がないのだ。

 3.11以降、多くの人に「現地を見ておいたほうがいい」と言われた。「1000年に一度の災害なんだから」「地元で起きた出来事なんだから」「人にものを伝える仕事に就いているなら」などと、それらのすべては善意の進言であった(と、受け取っている)。ありがたいアドヴァイスであるし、なかには私のフットワークの悪さ、腰の重さを歯痒く思い、背中を押そうとした指摘・苦言であったかもしれない。それらにもかかわらず、私は現場を見ていない。「もし、行くならば」と考えていた閖上にも、今日も足が向かなかった。やはり、自信がない。

 私は現地に行き、惨状を見る自信がない。もし仕事で必要があれば、それを理由に行ったと思う。または親類縁者がいて、自分の力が必要だと思えば向かっただろう。しかしそのような状況にはならず、今日まで現地に行く状況も理由も生じなかった。
 そんな私が現地に行くことは、自分の中での解釈では(そう、あくまで自分の中での解釈だ)、かぎりなく「見物」に近くなりそうな気がしている。「たとえ“見物”でもいいじゃないか」と自分の気持ちにケリをつけることがどうしてもできない。要は、自分自身にケリをつける自信がないのだ。

 

 阪神・淡路大震災が起きたとき、大学の同級生の多くが現地入りしてボランティア活動に従事した。ゼミやサークルといった単位で参加し、現地入りしてからの役割も整っているというケースも多かった。そんな組織に何のつながりも持たない私と親友のMは、それでも被災地を見よう、現地の様子を直接知ろうと、ある夜二人だけで東海道線に乗り神戸へ向かった。
 一泊二日の帰りの東海道線車内。二人ともただ黙って座席に座り、目を合わせることもなかったと記憶している。喧嘩したわけではない。彼とは同じ思いでいた(だからあえて、先ほど彼をこの文章に登場させる際、滅多に使わない言葉を冠した)。

「我々は、なんと無責任か」と。

 そして、あれは東京駅だったか、それとも新宿駅だったか、人の数の多いホームで彼が言った「オレたちのような馬鹿に非日常を見物させるために、神戸があるんじゃないんだよな」という言葉。それがずっと胸の奥に残っている。



 「責任」という言葉は、今回の震災以降に最も多く考えた言葉の一つだ。報道や本で知る、責任感に満ちた多くの行動や、不便な生活の中で近所や身の回りでもたくさん目にした、責任を持った言葉やふるまい。一方で、責任逃れしているようにしか感じられず、無責任この上ないと思わざるを得ない言葉の数々。残念ながらその多くが、大きな使命を背負う立場にある人からのものだった。それ以外にも、「絶対に乗り越えられる! ずっと応援している!」というある有名人の言葉など、ラジオで耳にするたびにこっちかが心配になるほど無責任に思えた。復興はそう簡単なことではないですよ、ずっと応援するって、何をどう続けるおつもりなんですか、と。

 『利他学』(小田亮/新潮選書)という本を読んだのも、震災後多く経験した「利他」という心理の仕組みをもっと知りたかったのに加え、翻って「利己」の心理もその仕組みを深くわかるのではないかと期待したためだ。責任ある利他と、無責任な利己。この極端に対立する二つを比べて見続けたのが、この半年間だった。

 できることなら、責任を持ちたいと思う。「責任を持って行動する」と宣言するのはあまりに大きなことだし、それを100%実践して生きることは本当に困難だと思う。また、主観評価ではなく客観評価されるべきものだろうから、他人に無責任と指摘され、「責任をとれ」と言われればそれまでだ。それでも、小さなことからでいい、できる範囲のことからでいいから、責任を持った行動をとっていきたい。それを個人的にでも進めていくことが、無責任な利己に対抗する、唯一の手段であるように思う。

 当面の自分の責任。それは、ある約束を守ることだ。その約束とは、震災後にある文章に書いたことで、その時は実現の見通しはまったく立っていなかった。しかし、やっとその一歩めが見え始めている。まだまだ大きな壁がたくさんあるが、なんとか、なんとか、実現させて約束を果たしたい。それが当面の自分の責任であると、震災後半年を迎える今日、ここに記しておく。

 この責任を果たすことができれば…と、そもそも責任とは果たしてしかるべきことなのだろうが、やっと自分も「震災後」に身を置けるような気がする。それは、被災現場に行くこと、閖上をこの目で見る自信につながるかもしれない。その時はたぶん「見物ではない」と、自分の気持ちにケリをつけてロードレーサーに乗ることができるだろう。

 それまでは、
 震災、未だ終わらず。
 復興、未だ長き途の最中。

2011年6月2日木曜日

20110602

20110602


一週間ほど前のある会合で、僭越ながら披露したスピーチ。
ほぼ原文のママ(のはず)。
備忘録の意味もあると、照れ隠しにことわりつつ。




 
 まずは、皆様方にたいへん大きなご心配をおかけしました。また、たくさんの温かいメッセージを頂戴しまして、誠にありがとうございました。


 おかげさまで、幸運なことに、小会職員・理事、全員無事でおりました。ただ、これは本当に「幸運なこと」でございまして、少しご縁を広げるだけで、お家を無くされた方、まだ避難所にいらっしゃる方、そして命を落とされたという方が、周りには多くいらっしゃいます。私も、友人を一人亡くしました。
 それゆえ、世間でよく耳にする、なんとなくの「復興」や、なんとなくの「がんばろう」、あるいは「日本の力を信じている」という言葉には実感を持てず、簡単には受け入れられない気持ちがあります。それらの言葉が勝手に頭の上をフワフワと飛び交っているような、そんな印象を抱いているのが正直なところです。

 そんな中、被災地にある大学出版部に属する一人として、今回の震災であらためて「本を読むこと」「本を作ること」について考えました。

 被災に遭っているなかで、本はどんな役割を果たすことができるのか。ある人が言うには、ハードカバーの厚い本を開いて頭の上に乗せ、それを紐で括りつければヘルメット代わりになるそうです。特に、我々大学出版部の刊行する本は分厚いものが多いので、良いヘルメットになる。なかなかの妙案ですが、重過ぎて、首が鞭打ちになってしまうかもしれません。少なくとも、被災地の仙台で本のヘルメットをしている人を、実際に見かけることはありませんでした。
 それは冗談ですが、本当の「本の力」を目の当たりにもしました。震災後しばらくして、仙台市内の書店が再開した時です。紀伊國屋やジュンク堂、さらには個人経営の小さな書店に至るまで、本を求めるお客で店があふれるほどでした。定期刊行物を買って、自らの日常を取り戻そうとする人。子どものための読み聞かせの絵本や手遊びの本を求める、一目見て避難所から来たとわかる人。そして、吉村昭さんの『三陸海岸大津波』や震災・原発関連の本を買い求める若い人。みんな本を両手で持ち、胸に抱えるようにして買って帰っていきました。大学を卒業して以来、ずっと出版に関わる仕事をしてきましたが、この時ほど「本の力」を強烈に感じたことはありませんでした。

 本には、力があります。「日本の力を信じている」という言葉を、単純に受け入れていいのかはわかりません。でも、「本の力を信じている」なら、受け入れてもいい。むしろ、声を大にして「信じている!」と言いたい。そう思っています。

 先ほど、なんとなくの「復興」や、なんとなくの「がんばろう」という言葉には実感が持てないと言いました。でも、実感が持てる「復興」や「再生」も、仙台ではたしかに始まっています。その息吹が、仙台の街の中で感じられつつあります。

 仙台は、元気です。

 そんな仙台に、皆さん是非いらしてください。もちろん、その際には小会にも遊びにいらしてください。先日、事務局を片平キャンパス内の新たな場所に移転させたのですが、窓を開けると目の前に、あの魯迅が仙台医学専門学校時代に学んだ、通称「魯迅の階段教室」があります。旧い木造校舎ですが、今回の大地震でもびくともしませんでした。「歴史の強さ」を感じます。その歴史に学び、その歴史に負けないよう、小会も頑張っていきたいと思っております。これからも、どうぞ小会をよろしくお願い申し上げます。この度は誠にありがとうございました。

2011年4月27日水曜日

20110427

20110427

 遡ること、数年前の秋。

 その日は、宮城県サイクリング協会が主催する「秋の100キロライド」の開催日であった。名取市閖上にある名取市サイクルスポーツセンターを出発して、伊具郡丸森町の不動尊公園で折り返す、全長約100キロの自転車走行イベントである。海沿いにあるサイクルスポーツセンターは仙台エリアの自転車乗りの聖地であり、不動尊公園は宮城県南屈指の紅葉スポット。この二つを結ぶ同イベントは、毎年この地の自転車シーズンの終わりを告げるものとなっている。通称「(聖地と不動尊の)巡礼ライド」、または「落ち葉の100キロライド」などと呼ぶ人もいる。自転車の車列を巡礼者に見立てた前者もいいが、ロードレーサーの細いタイヤで、車道脇に寄せられた落ち葉をかさかさと踏んで走ることから付いた後者のほうが、私は気に入っている。このスポーツが常に季節とともにあることを感じさせてくれる、多くの自転車人に愛されているイベントだ。

 私はいつも、この手のイベントはなるべく遅くエントリーする。申込み開始直後にエントリーすると、スタート順も前のほうになり、やる気満々の連中に巻き込まれてレースさながらの「マジ走り」になってしまう。それはそれで面白いのだが、まわりの景色よりもコースの先々の起伏のほうに注意がいってしまい、「あの登りでアタックをかけよう」「後半の平坦地まで、脚を残しておこう(「脚を残す」=脚力を温存する)」などと考えているうちにゴールを迎えてしまう。これではせっかくの「落ち葉の100キロライド」を楽しめない。そのため、なるべく遅くエントリーし、前走集団を追わず後続からも煽られず、ゆっくりと走ることにしている。

 その日も、スタートは最終組に近かった。細い松並木の道を抜け、左に太平洋を見ながら南下。最終組の中でも位置を後ろにし、先行組を見送ってしんがりを気取る。気楽な一人旅を楽しもうと、スピードも落とした。

 しばらく走ると、両脇に田んぼが広がる橋を渡った先で人がうずくまっている。レースジャージを着ているようだ。たぶん参加者だろう。すぐ脇にロードレーサーが横倒しになっている。もし落車なら怪我が心配だ。近くまで行って声をかけた。

「だいじょうぶですか?」
パンクしちまった」

 声の感じはだいぶ年上で、かなりのベテランだと感じた。

「予備のチューブ、あります?」
「取り換えてたら、予備のほうもダメになった」

 ロードレーサーが練習に出るときは、たいてい予備のチューブと簡易型のエアポンプを携帯している。パンクしたら走れなくなるし、走れないということは帰れないということだ。私も常に、予備の新品チューブを持って出かけるようにしている。その人も予備を持っていたようだが、交換の作業で予備チューブをダメにしてしまったらしい。起こり得ることではあるが、あまりに運がないとしか言いようがない。自分の自転車のメーターを見ると、スタートからまだ8キロしか走っていない。100キロライドを8キロで終えるというのは酷だ。それならばと、自分の予備チューブを提供することにした。 
 ことわっておくが、これは珍しいことではない。ロードレーサーが予備チューブを携帯するのは、自助のためだけではなく、他のロードレーサー(=仲間)にトラブルが起きたときに助けるためで、ごく当たり前のこととの共通認識がある。少なくとも、私は自転車の師匠からそう教わった。ちなみに、ボトルホルダーにボトルを二つ付けておくのも、一つは自分のため、もう一つはいつでも誰かにあげるためだ。だから、一つは自分の好みのもの(例えばスポーツドリンクやアミノ酸飲料)を入れておき、もう一つは好みを問わない水を入れておく。水はケガをした時に傷口を洗ったり、暑い時には頭や身体にかけることもできる。二つのボトルのうちの一つは、「自分のボトルだが、誰かのボトル」なのだ。チューブにも同じことが言える。

「よかったら、チューブ使ってください」
いいのか? 自分のがパンクしたら、どうすんだ?」
「いやぁ、パンクする前に、ササッと100キロ走っちゃいますよ」

 サングラス越しなので目の表情はわからないが、相手の口元が緩んだ。

「おっ、なかなか言うなぁ。 それじゃぁ、ありがたくもらうよ」

 そう言って手早くチューブを嵌め(本当に、無駄のない見事な仕事ぶりだった)、手早くギアやブレーキのチェックも済ませた。その一連の流れは、美しいほどだった。

「お礼に、行きも帰りも俺が前を引っ張るよ。それでいいだろ?」
「…そうですか。それじゃぁ、せっかくですから」

「前を引っ張る」とは、縦列で走る際に先頭を走るということである。前を走れば風の抵抗も受けるし、コースの誘導やペースメイクもしなくてはいけない。逆に、後ろを走れば風の抵抗は無く、ついて行けばいいだけだ。本格的なロードレースでは、自分のチームのエースの体力を温存させるために、アシストの役割を果たす選手が前を引っ張ることが多い。趣味のファンライドでも、前を引っ張るのは上級者の役目である。
 かなりのベテランとは見えるが、年齢差は明らかだ。60代半ばくらいというところか。今はそう言ってくれているが、いずれは自分が引っ張ることになるだろう。それでも、せっかくのご縁だから一緒に走ってみよう。意外と面白いかもしれない。そう考え、「よろしくお願いします」と言って後ろについた。前を行く色褪せたジャージの背中には「TAKATA」とプリントしてある。チーム名だろうか。名前も訊かないまま走り始めてしまったので、とりあえず自分の中では「高田さん」と呼ぶことにした。ベテランの走りを後ろから見て勉強させてもらおうと、のんびりした気持ちでペダルを回し始めた。

 高田さんは、怪物だった。とにかく速い。軽めのギアを高速で回転させ、平地ではどんどん加速する。コーナーリングも攻めの一辺倒だ。小さい身体を折りたたみ、低い姿勢で走るので、身体が大きいこちらとしてはまったく風よけにならない。ペースもイメージしていたものより5割増しくらいで、このままだと復路の脚が少し心配になるほどだ。よく見てみれば、オールドブランドの年季の入ったシューズにグサリと刺さる高田さんの脚は、タダモノではない。焼けた肌が筋肉で押し上げられ、血管も浮き出ている。完全にロードレーサーの脚だ。エラい人と一緒に走るはめになったもんだと、のんびりを返上して「TAKATA」の背中を追うことにした。

 それでも、コースの中盤にある峠越えの登りには自信があった。いつも登りの練習をしていたし、比較的得意な斜度だ。つづら折りではなく、直線の一気登りというのも、リズムに乗ってぐいぐいと登っていける。ここくらい前を引っ張らないと、さすがに格好が悪い。先を行く高田さんがペースを上げも下げもしないので、黙って追い抜いて前に出た。自分のリズムで加速し、ペースを作る。後ろから特に反応はない。耳をすますと、息遣いも聞こえないし、タイヤの音もしない。「あれ? もしかして、置いてきちゃったかな」と後ろを振り向くと、口も開かず(=息切れすらせず)に高田さんがピッタリとついてきている。ちょっとうぬぼれていたようだ。高田さんは、こちらのペースに完璧に合わせて走っていたのだ。そして、「おい、アタックじゃなかったのか? 先に行くぞ」と、あっという間に置いていかれてしまった。20代のころに師匠につけてもらった練習を含め、登りであんなにきれいに置いていかれたのは初めてだった。

 予定よりもだいぶ早く折り返し地点に到着。モミジを見ながらコンビニのおにぎりを食べるつもりだったのだが、高田さんが許してくれない。「こいつのほうが、すぐに力になるぞ」と、ゼリー飲料を渡された。おにぎりを諦め、それをありがたくいただく。
 折り返し地点の受付には、いつもお世話になっているプロショップのI店長さんがいた。私と高田さんが並んでゼリー飲料を吸っているのを見て、「あれ! 珍しい顔合わせだなぁ。この二人が並んでるとは!」とおどける。店長さんの脇に行き、耳元で「あの人、何者なんですか?」と小声で訊ねると、「あの人はジョーさん。生きる伝説だよ。いろんなレースで、シニアクラスのチャンピオンになっている人」と言う。やはりタダモノではなった。「ジョー」というのは本名か、それとも愛称か。そうそう簡単には崩れそうにない走り=精神力が、どこか「矢吹丈」を思わせる気もする。店長と私のそんな会話が耳に入ったのか、高田さんは「おい、100キロをササッと走るんじゃなかったのか?」と、もう復路に出る準備を済ませている。こちらも慌てて準備して、後を追った。

 復路もずっと、前を引いてもらった。ただ、往路よりもスピードは緩く、高田さんと並走する時間が長かった。当然、会話もある。私が訊ねたことと言えば、いま振り返るとつまらないことばかりだった。でも、それに対する高田さんの答えは示唆に富んでいた。

私「ボトルには、いつも何を入れて走ってるんですか?」
高「麦茶。いろんなドリンクがあるらしいけど、苦しい時は好きなものを飲むのが一番だ」

私「普段から、身体には気を使ってるんですか?」
高「若い頃は、何を食うかが大切だ。 
  でも齢をとったら、何を食わないかが大切になる」

 高田さんから訊かれたことも、いくつか覚えている。

「はじめての自転車は、いくつの時だった?」
「ロードレーサーには、いくつまで乗るつもりだ?」
「他に何かスポーツはやってるのか?」

 三つの目の質問の意図はキビシかった。自転車の他に水泳をやっていると答えると、

「そうか、水泳か。
 いいカラダをしている割には、自転車の乗り方がヘタクソだ。
 自転車で鍛えているなら、もっと乗り方が上手いはずだ。
 たぶん、他のスポーツをやっているんだろうと思った」

 苦笑いするしかなかった。


 ゴールに到着後、高田さんは、受付のスタッフや先に着いていた知り合い、さらには犬を抱いた奥さんに向かって、スタートしてすぐパンクしたこと、予備のチューブもダメになったことを笑いながら繰り返し説明し、私の手を引っ張って「この人に助けてもらった」「この人が新しいチューブをくれた」と言い回った 。そして私に「本当に助かった。それから、一緒に走って楽しかった。どうもありがとう」と言ってくれた。私ももちろん、お礼を言った。どうしても名前を教えてくれと言われたが、なんだか気恥ずかしくて、「名乗るほどの者ではないですから」と言い、「いずれまた、一緒に走りましょう」と添えた。高田さんは、「そうだな、お互いに自転車に乗っていれば、またどこかの道で会えるよな」と、はじめてサングラスを外して握手を求めてきた。私もサングラスを外し、手を握り返した。



 その年の大みそかのことだ。心当たりのない荷物が私宛てに届いた。両手で抱えるほどの大きさの発泡スチロール箱。差出人の名前はまるで知らない。伝票の荷品欄には「ナマモノ」とある。開けてみると、殻付きの立派な牡蠣がぎっしりと詰まっていた。プクプクと泡を吹く、活きのいいものばかりだ。何事かと思ったが、封筒も入っていない。蓋の裏側に、何か入ったレジ袋が無造作にガムテープで貼りつけてあるのに気づき、それをはがして中を見ると、新品の自転車チューブと一筆箋が一枚出てきた。「秋に借りたチューブをお返しします。あの時はありがとう」と書いてあった。差出人は、「岩手県陸前高田市○○○ 佐藤上」。

「上、ジョー…、さん!?」

「秋に借りたチューブ」と言えば、それしか考えられなかった。「TAKATA」は陸前高田市の「高田」で、「ジョーさん」とは本名の「上さん」だった。曖昧のままにして忘れていたことが、一気に解消した。それにしても、牡蠣のことは何も書かず、ただ「チューブをお返しします」とは…。

 年明け早々にプロショップのI店長を訪ね、このことを話した。佐藤上さんは陸前高田市の駅前で自転車店を営んでおり、「チームTAKATA」というロードレースチームに所属する、御大クラスのレーサーだそうだ。100キロライドのあとにIさんの店に、「あの時一緒に走った人(=私)の名前と住所を教えてほしい。折り返し地点で自分と一緒にいた人だ」と上さんから電話があったそうだ。訳を訊くと「チューブを借りっぱなしだから、返さなきゃならない」と言う。I店長はすぐに私とわかり、そういう理由ならば教えても良いかと思ったそうだが、個人情報云々の面倒な決まりもあるので協会事務局に電話してくれと上さんに言った。その後、上さんは事務局(と言っても、個人の家だ)に電話し、当日の顛末と私がその日に自転車に付けていた参加ゼッケン番号(いつの間に覚えていたのか!?)を言って、私の名前と住所を聞き出したらしい。


 牡蠣の礼状を兼ねた年賀状を出して以来、年賀状だけのやり取りが続いた。私からは毎年「いつかまた一緒に走りましょう」で、上さんからは「あの時はありがとう」。それだけの言葉を、毎年の年初めに交わし合ってきた。





 311日、陸前高田市を大津波が襲った。佐藤上さんは遺体で見つかった。

 上さんの安否はI店長が知っているだろうと思ってはいたが、意気地無しの私がそれを確かめにI店長の店に行くには、まる一カ月必要だった。I店長は私を見てすぐ、「ジョーさん、ダメだったよ」と言った。「まぁ、ジョーさんのことだから、『おい、はやく逃げろ!』なんて自転車に乗って町内を言い回って、最後まで悠々と自転車乗っていて波に飲まれたんじゃないかって、みんなそう言ってるよ」とも。その時ふと、「ロードレーサーには、いくつまで乗るつもりだ?」という上さんの言葉を思い出した。

 上さん、あなたは死ぬまで、ロードレーサーに乗っていたのですか? 




 佐藤上さんは、今回の震災で命を落とした多くの方々のうち、ただ一人私が「知人」と言える人である。顔の広い方であったはずだから、私ごときとの由縁は取るに足らないものかもしれない。ましてや、笑いながら「ヘタクソ」と言われたほどだ。自転車乗りが仲間を弔うときにするように、自転車に乗って上さんの追悼ライドをすることは、恥ずかしくてできない。だから、四十九日を前に、自転車に乗るのと同じくらい好きな文章を書くことで、 佐藤上さんを弔いたい。


佐藤上さん。
何よりも、また一緒に走る約束を果たせないことが残念です。
でも、約束してくれてありがとうございました。
いただいた牡蠣は全部食べましたが、チューブはまだ新品のままです。
もしかして、お店の売り物だったんでしょうか? 値札がついていました。
そのお店も、すべて津波に流されたと聞きました。
このチューブは、お店の、そして上さんの形見だと思ってとっておきます。
決して忘れることのない思い出のものを、ありがとうございました。
あの秋の日に一緒に走った道の一部は、今は変わり果てています。
それでも、いつか必ず、またロードレーサーであの道を走る日が来ることを信じています。
自分がいくつまでロードレーサーに乗れるか、
あの時と同じく、ぜんぜん予想できず答えられません。
でも、少しでも上手く乗れるように、ずっと練習します。
そしていつか、そちらの世界で約束を果たすことができたら嬉しいです。
その時はまた、前を引っ張って下さい。


さようなら、佐藤上さん。私はあなたを忘れません。




2011年4月1日金曜日

20110401

20110401

 「2月は逃げる、3月は去る」と言うが、2011年の3月も昨日終わった。文字どおり「去られた」あるいは「置き去りにされた」ような感がある。

 例年の3月は年度末の出版ラッシュに追われ、教科書販売のための大学生協納品日から逆算し、土日や春分の日の空白を恨めしく思うほどカレンダーの日のめぐりに頭を痛める毎日となる。しかし、今年はそうではなかった。なにしろ、20点ほど出る予定だった3月の刊行物がゼロ(増刷のみ1点あり)である。印刷会社の作業工程は、311日以降は安否確認・社員自宅待機・電力復旧待ち・印刷機のメンテナンス・紙やインキの確保等々でほぼ止まり、今週からようやく動き始めたといったところだ。各大学の迅速な対応や著者の協力もあり、なんとか5月の連休前までにはすべて刊行できそうだが、いずれの本も綱渡りの進行で油断はできない。今朝も早速、「書籍用紙が通常使用のものよりも若干厚いものになりますが」「見返しに使う紙の色は、自由に選べそうにないのですが」「表紙の紙が発注のものと異なりますが、その紙もいま押さえないと流れそうなのでご相談したいのですが…」という印刷会社からの電話が相次いだ。有難いことに既刊本の売れ行きが良く、運送業者のライン復旧とともに滞っていた注文商品の納品も行なえるようになっているが、新刊書籍が出ないというのはやはり厳しい。

 一方、地元の印刷会社が受けたダメージも相当深刻らしい。ある印刷会社の営業さんが言うには「私が聞いただけで、倒産寸前だっていう同業さんが5社くらいあります」とのことだ。その真偽はともかく、どの印刷会社も苦戦していることは間違いない。
 印刷会社が持つ大きな印刷機は、厳密な水平を保って置かれる。まず、地震でその機械が数十センチも動き、水平を保っていた足場が壊れた。元に戻すと言っても、巨大な印刷機を立てなおし、前と同じように水平を保つのは容易ではない。当然、メンテナンスの専門家を呼ぶことになるが、今回の震災は広範囲の多くの印刷会社が影響を受けているので、その専門家も東日本を飛び回っている状態らしい。ある仙台の印刷会社は、14日に電話が通じてすぐにメンテナンスを依頼したそうだが、来てくれたのは二週間以上経った一昨日だという。
 紙とインクの手配については、「今のところ大丈夫です」「ウチは確保できています」という返事をしてくれるところが多い。しかし、本当に深刻になるのは一、二ヶ月後からではないかと、先々の不安を口にする営業さんもいる。実際は「今後どうなるかわからない」というところが正確なのではないだろうか。 
 自社の印刷機のメンテナンスや修理、さらには紙とインクの確保が困難であっても「他の地域に協力会社がありますから、そこで刷って製本してもらえます」と言う営業さんも多い。しかし、それでは版元から支払われる印刷費をほぼそのまま協力会社に支払うことになり、売上にはならない。「印刷機が回ればお金も回る」という印刷業は、自社の印刷機が回らなければお金は回ってこないのだ。例年なら書き入れ時の3月の売上は、前年比すれば目を疑うものになるのではないかと思う。

 さらに、地元書店も危機にある。仙台市内では既に開店している書店もあるが、地震から三週間となる今でも閉めたままの店が多い。単純に考えて、その間の売上は無い。店内の片付けや掃除のなかで、返品せざるを得なくなった商品も多いだろう。定期刊行物(雑誌類)も、三週間も間が空いてしまえばほぼ総入れ替えになるだろうが、この間に刊行された定期刊行物や月毎に出る新刊(文庫や新書等も)の納品・返品はどうなるのか。いずれにしろ、時間が経てば経つほど売上減は大きくなり、品揃えのための棚管理も大仕事になってくる。再開準備に大人数をかけて一気に再始動へ向かう書店もあれば、ほんの数人、または一人で作業にあたり、休憩時には電卓を叩いて今後の経営に頭を抱えるという書店もあるはずだ。この三週間が、書店間の「格差」を生むようなことになるのは避けたい。
 どこの書店でも買える一般雑誌や、新刊・定番の文庫・新書は、再開までに時間のかかった書店で買う。大きな書店でしか売っていないような本でも急がないものなら、あえて小さな書店で取り寄せしてもらって待つ。そんなことが、街の小さな書店さんの応援につながる。(もちろん、ネットショップや大書店での購入を避けようということでは全くない。誤解のないように)

 仙台駅ビルの「エスパル」内にある書店「ブックスミヤギ」は、本日が営業再開日だった。この店のS店長は、版元の営業担当者・取次店関係者・他の書店員からの信頼の厚い、仙台の書店業界の兄貴分のような存在である。仙台駅の新幹線ホームが壊滅的な打撃を受け、その下の階にある同店も相当の影響を受けたのではないかと、ずっと気になっていた。幸いなことに、地震後に連絡を取り合った地元版元の仲間から、Sさんはじめ同店スタッフの無事は聞いていた。しかし、店のほうはどうなっているのか。
 今日の昼前、さっそく行ってみた。お店に入り、まずはSさんを見つけてガッチリと握手。「三週間前のまんまだけど、週明けから新しいのが入ってくるから、またすぐに忙しくなるよ」と、元気がある。お店も以前と変わりない。ただ、アルバイト従業員の一人が津波で家を失ったそうで、そのことだけはどうしようか思案中らしい。「社員なら見舞金の規定があるんだけど、バイトは何もなくてね。なんとかして御見舞を出してあげようと思っている。そのためにも本を売らなきゃ」。仲間を思い、そのために前を向く姿がSさんらしい。
 311日以降、私は一冊も本を買っていない。新しい本を買って読む余裕も時間もなかったし、はじめのうちは「財布の中のお金はすべて食べ物に変え、妻に食べさせよう。とにかく開いているお店を探し、良い食材を手に入れよう」とだけ考えていた。しかし、それも落ち着き、市内の書店の再開のニュースが聞こえてきたり、逆に県内の書店の厳しい実情が聞こえてきたりすると、「地震後最初の本を、どこで買おうか」という妙な命題が頭の中で膨らんできた。真っ先に浮かんだのがブックスミヤギだった。小規模店ながら男手が少ないし、駅ビル立地で雑誌は売れるものの、その雑誌売上が三週間もゼロになるのはかなり深刻なはずだ。少しでも応援になれば嬉しいし、何より、Sさんがいる。他の市内の書店さんにも本当にお世話になっており、仕事でも個人的にも、可愛がってもらったり仲良くさせていただいている書店員さんがたくさんいる。そのことに優先順位や順番など付けられるわけがないのだが、今回はブックスミヤギで買うことに決めていた。
 「本を買いたい気持ち、三週間我慢してたんですよ。ちょっと見せて下さいね」と言って店内を歩きはじめると、「ホントに新刊が無いんだ。ごめんな。古いのばっかりなんだ」と笑いながら言われた。書店にとって新刊書が並んでいないということは、こちらの想像以上に気が引けることらしい。以前ある書店員さんが、「忙しくて何日も手を入れられていない棚をお客様に見られるのは、何日も同じ服を着たまま外出する感覚に近い」と言っていた。なるほど、わかるような気がする。

 ここ三週間、東北人の読書量はかつてないほど落ちているのではないかと思う。「読書どころではない」というのは当たり前だが、この知的損失は計り知れない。かくいう私も、ここ三週間の読書量はほとんどゼロである。
 大学時代の恩師が、「君たちは、ものを知らない。そんな君たちが厳しい社会に出て、恐れ多くも頭を使う仕事でお金をいただこうというなら、ものを知ろうとすることを止めてはいけない。呼吸をするように、本を読みなさい。朝起きて顔を洗うように、本を読みなさい。君たちはそうして本を読まなくてはいけないのです。それから、『趣味は読書です』なんて、口が裂けても言うなよ。呼吸することを趣味だと言うか? 朝起きて顔を洗うことを趣味だと言うか? 言わないだろう。君たちにとって、読書は趣味になり得ない。読書は、生きるための糧だ」と言っていた。その教えに背いたこの三週間を、どれだけかけて取り戻せばよいのだろうか。多くの東北人に、再び本を読む時が一刻も早く訪れますように。

 本を買った帰り、河北新報社の前で同社の編集委員の知人とばったり会い、20分ほど立ち話をした。その知人は地震後、「余震の中で新聞を作る」と題した読み応えのあるブログをこれまで9回更新しており、まずはその感想を伝えた。現場の記者は11日以降ほとんど休んでおらず、曜日の感覚も年度の感覚も吹き飛んでいるらしい。「311日という日がまだ終わらず、ずっと続いているような感覚すらある」という。これは優れた新聞人ならではの感覚かもしれない。ご本人は出身が福島県相馬市で、東京電力原子力発電所事故の風評被害が本当にひどいとも言っていた。避難についても、こんな状況下で住民に「自己判断」「自己責任」を求めるなんて、許されるわけがないと。
 「河北新報」は、宮城の地元紙として、被災地の避難所への無料配布などもしているのだろうか。それは定かではないが、避難されている方々にとって、毎朝読む新聞は支えになると思う。紙面から知る日々の新しいことは、「昨日とは違う今日」を感じることになる。それが「今の状況は滞ってはいない、前に進んでいるんだ」と、身のまわりの変化(それは「改善」であってほしいのだが)を信じる根拠になるだろう。震災の報道については様々な意見が見られるが、読者のそんな心理にも気づいていてくれればと思う。
 
 人と会い、話をすれば、今回の災害のまた新たな面を知る。「被災地の非被災者」である自分は、この先しばらくはそうやって災害の実像を知っていくのだろうと思う。それは、写真や映像から知ることよりも、よりリアルに心に残っていくような気がする。そしてまた、それらの多くは「この先の問題」として大きくのしかかってくる。
 ある大学出版の先輩のツイートで得た情報だが、宮城県大崎市岩出山の「有備館」の母屋が倒壊したそうだ。旧仙台藩の学問所で、現存する日本最古の学問所建築である有備館。建物の趣はもちろん、庭園の美しさは実に見事である。春の花に夏の青葉、秋の紅葉に冬の雪。その季節の色に囲まれた静謐な佇まいが、多くの人の心を掴んでいる。私も何度も足を運んだ。
 勤務している大学出版の人気シリーズ「人文社会科学講演シリーズ」は、東北大学大学院文学研究科が行なう市民講座を再録したもので、その講座は会場にちなんで「有備館講座」の別名がある。もちろん、上記した有備館のことだ。地元にある日本最古の学問所で、地元大学の研究者が市民向けの講座をするという趣向は、ロマンあふれる素晴らしいものだと常々思っていた。有備館の倒壊が、この講座の今後にどのような影響を与えるのか。これもまた、地震が残した「この先の問題」である。


 仙台では、「これからですね」という挨拶を、今週くらいから交わせるようになってきた。無事の確認と喜び、そして身のまわりの支えと立て直しのあとは、決して楽観できない厳しい今後に向けて、互いに鼓舞し合う。仙台人がいま経験しているこのプロセスは、仙台をまた少し「災害に強い街」にするように思う。


 生活面でも、少しずつ変化が出てきている。今週はじめに水が復旧し、大きな便利を取り戻した。それなのに「早くガスが来れば」「並ばずにガソリンを入れられるようになれば」「通行止めが解除されれば」と、すぐにまた次の便利を求める自分がいる。二週間前の自分に、怒鳴りつけてほしいくらいだ。まだまだ粘り強く、しぶとくやっていこう。
 被災地の非被災者としてようやくここまで来たのだから、残りの「便利を失った生活」は「練習」と思うことにした。いずれまた、全ての便利を失う時が来るかもしれない。大災害はいつでもやってくるし、実際に大きな余震は毎日のようにある。記憶が鮮明な今のうちに、「便利を失った生活」の練習を続けておこう。この日々は、またとない「練習」の日々にできる。本当はまだまだ本番が続いているのだが、「本番は最高の練習」とは水泳から学んだ言葉である。また「練習でできないことが本番でできるわけがない」ということも、「足元に積み重ねなければ、高いところには行けない」ということも、同じく水泳を通して身をもって理解しているつもりだ。そして「練習ハ不可能ヲ可能ニス」という言葉も。これも前に書いた恩師から教わった、小泉信三氏の言葉である。そうだ、今こそ小泉信三著の『平生の心がけ』(講談社学術文庫)を読み直そう。今こそ「平生」を考える絶好の機会なのだ。



 今日「ブックスミヤギ」で購入した本は以下の通り。

①『すべてはどのように終わるのか あなたの死から宇宙の最後まで』
  (クリス・インピー著/小野木明恵訳/早川書房)
②『哲学する赤ちゃん』
  (アリソン・ゴブニック著/青木玲訳/亜紀書房)
③『職業としての科学』
  (佐藤文隆/岩波新書)
④『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』
  (竹田恒泰/PHP新書)
⑤『「患者様」が医療を壊す』
  (岩田健太郎/新潮選書)
⑥『凛とした生き方』
  (金美齢/PHP文庫)
⑦『袖のボタン』
  (丸谷才一/朝日文庫)
⑧『三浦太郎のあかちゃんえほん(全3巻)』
  (三浦太郎/こぐま社)

 ①は前から気になっていた一冊。3.11の後の最初の一冊というのは皮肉になってしまうが。②は目の前に最高のサンプルがいるので。③は職業柄の一冊。⑦は「丸谷調」で綴られる活字に目を通すだけで、きっと心が豊かになれるはず。⑧は息子への最初の本。震災後、営業再開した「ブックスミヤギ」で買ったということも、いずれ教えてやりたい。

 最後になったが、河北新報編集委員の知人による「余震の中で新聞を作る」が読めるブログ「café vita」はこちら→http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/